村川拓也『 Pamilya(パミリヤ) 』 批評文 vol.2
訂正内容につきましてはこちらをご参照ください。(2023年6月29日更新)
文:三好 剛平
2022年12月17日と18日、久留米シティプラザでは「知る/みる/考える 私たちの劇場シリーズ」の第2弾として村川拓也『Pamilya(パミリヤ)』が上演された。「知る/みる/考える〜」は久留米シティプラザが2022年より開始した、時代を独自の視点から捉えた意欲的な演劇作品をセレクト・上演していくプログラム。7月にはその第1弾として市原佐都子/Qによる『妖精の問題 デラックス』が上演されている。
今回第2弾となる『Pamilya』でもメインの上演に加え、それに先立つ関連イベントとして、作品の背景をゲストと共に考える「プレレクチャー」イベントや、上演直後に若年観客(15歳~25歳)十数名がアーティストとともに作品理解を深める対話プログラムが準備された。前者のプレレクチャーでは外国人労働を切り口とした「多文化共生」をテーマに場が設けられ、後者の対話プログラムでは特に「なぜこのような形式の演劇としたのか」について作家本人との議論が活発に行われた。
『Pamilya』は京都を拠点に活動する演出家・映像作家の村川拓也による舞台作品である。村川自身が福岡の介護福祉施設でリサーチを重ねるなかで出会ったフィリピン出身の女性介護士(ジェッサさん)を主演に迎え、彼女が働く福祉施設の日常を舞台上で再現する。そうはいっても舞台上にあるのはベッドと車椅子を模したキャスター付きの椅子くらいで、あとは真っ黒な空間が広がるのみだ。
時間になるとまず村川が舞台袖からひょっこり現れ、観客にむけてひとつの「お願い」を発するところからこの演目は始まる。曰く、劇中で被介護者となる「エトウさん」という女性の役を、観客の誰かに演じて欲しいという。客席から1名の立候補を受け付け、短い打ち合わせを済ませたら、舞台上でジェッサさんが自転車で施設に乗り付ける場面から作品の上演が始まるのだった。
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さて、ここではまず、当日この上演の終了直後に行われた対話プログラムで、村川が観客の質問に回答した以下エピソードを紹介することから稿を起こしていきたい。
1. なぜ介護のようすを淡々とマイムで再現する舞台にしたのか?
村川:自身の演出家デビュー作となった『ツァイトゲーバー』(2011)が原型。当時、友人との演劇づくりが行き詰まるなか、障害のある方の在宅介助の仕事をしていた彼がふと見せた、普段の介護作業のマイムに衝撃を受けた。彼とは何の台本も、流れやセリフさえも決めていなかったのに「そこに演劇があった」と感じ、それを作品化していった。
2. なぜ観客に、エトウさんの役を演じさせるのか?
村川:これも『ツァイトゲーバー』が原型。当時、はじめは被介護者の役を立てずに、介護士役のマイムだけで作品化を試みたが、やはりそこには相手役がいた方が良さそうに思えた。そこで次は「誰に被介護者を演じてもらうか」が課題となった。
実際の被介護者本人を舞台にあげるのは、当事者同志の個別的な話の再現にしかならず、それなら映画の方が向いていると感じた。かたやこちらは舞台であり、もっと広がりのあることが出来るのではないかと客席に目を向けたとき、「ここにたくさん人がいた」と観客の存在を再発見した。また客席の観客を起用することで、介護士役にとっても実際の介護現場と同じような「はじめまして」の緊張感をそのまま召喚できるのではないかと考えた。
3. なぜ介護者と被介護者の関係に注目するのか?
村川:両者のあいだにある「お世話するーされる」の関係に関心がある。それは家族でも恋人でもない、あくまで他人の関係であり、双方は仕事で結ばれているに過ぎない。しかし彼らのあいだでは、身体的にも精神的にも緊密な「接触」が日々交わされてもいる。この圧倒的な「他人であること」と「接触」の両立。仕事なのに愛があり、愛があるのに仕事であるという相反するものが両立しているこの関係性に美しさを感じている。
こうした村川の回答には、いずれも『Pamilya』の主題と形式に迫る糸口がある。以下、これらを踏まえながら作品についての思索をもう少し続けてみよう。
「再現」とドキュメンタリー、佐藤真
村川拓也は2001年に京都造形芸術大学の映像・舞台芸術学科に入学し、在学時代にドキュメンタリー映画と演劇について学んでいる。特に学生時代に師事したドキュメンタリー映画作家・佐藤真からの影響は大きく、自身でも以下のように述べている。
自分から出てくる何かを表現したいという欲望や、大きな社会問題に対して僕が何らかのメッセージを出すようなことよりも、日常とか、普段我々はどのように生きてるのかということを鏡のように映して見てもらうだけで、そこには複雑で色々な問題があるし、美しいもんもたくさんあるやろ、というようなことで。作品は現実社会の鏡である、ということをしたいなとは思っています。」
- LOVEFM「明治産業 presents Our Culture, Our View」#244(2022.11)出演回の発言から
佐藤真は『阿賀に生きる(92)』『SELF AND OTHERS(00)』などの作品を残し国内外で高く評価を集めたドキュメンタリー映画作家であり、映画論の執筆や大学等での後進の指導を通じてさまざまな分野の作家たちに多大な影響を与えた巨人であった。
そんな佐藤真はドキュメンタリーを「世界のあり方を批判的に受け止めるための表現」であり、また「ドキュメンタリーはフィクションである」と主張した。以下は佐藤がドキュメンタリー映画の始祖、ロバート・フラハティの作品を例に取り、その「再現」の虚構性を指摘したテキストである。
したがって、ドキュメンタリーは、その始原からフィクションであった。…それが、いかに”事実”を装い、”真実”の雰囲気をただよわせていようと、カメラの前で生起する出来事は”やっていただく”必要がある。しかも、その”事実の断片”を映画作家の主観によって再構築したものが、ドキュメンタリー映画であるから、それは、どこまでも”事実”や”真実”とは無縁の代物である。
佐藤はこうしたドキュメンタリーの虚構性を無自覚に甘受してしまうことへの危うさと、人々が「事実」あるいは「真実」らしきものばかりを求めるようになる「事実主義」とでもいうべき社会のムードに警鐘を鳴らした。さらに佐藤は、ドキュメンタリーに介在する本源的矛盾についても、以下のように指摘する。
- 以上、「日常と不在を見つめて」(里山社、2016) より抜粋
ここで『Pamilya』に話を戻す。
村川によるこの作品の中の「再現」とは、いったい何だったのか。
たとえばジェッサさんは実際に福祉施設で働いていた介護士なのだから、舞台上で行われた介護の振る舞いは確かな「真実」の再現かもしれない。しかし同時に、あの真っ黒な舞台の上で/観客の視線に晒されながら/当日その場で突如登壇することになったエトウさん役の女性にむけて施されたのは、現実の介護の風景を模した「虚構」の振る舞いでもあったはずだ。
ドキュメンタリー演劇の系譜に置かれることの多い村川の舞台は、こうした「ドキュメンタリー」や「再現」の虚構性にひときわ自覚的であり、自身の演劇が教育や啓蒙といった「目的」に回収されることを慎重に回避する。この世界と対峙するひとりの劇作家として、何か「わかった気になったこと」を真実のようにして伝えるより、この世界には「わからないこと」のほうがずっと多いという圧倒的な事実の方に向き合う。そこには、師である佐藤がよく口にしていた「どれだけ狙っても現実のほうが面白くて、自分の考えなんてものは脆くも崩れ去る」という厳粛な姿勢が継承されている。
だからこそ、本項冒頭に引いた発言の通り、村川の作品は「日常とか、普段我々はどのように生きてるのかということを鏡のように映」す「ドキュメンタリー」を志向し、そのために「再現」を用いる。思えば『Pamilya』の原型である『ツァイトゲーバー』が生まれるきっかけとなった、友人による介護のマイム(再現)に見出した演劇性も、こうしたドキュメンタリーへの姿勢とたしかに接続するものであったことがわかる。
小さな声に耳を澄ます
続いて、『Pamilya』における物語について。
日本の現代演劇のあり方を探究する平田オリザは(佐藤真と親交が深かったことでも知られる)、近代演劇から現代演劇への変遷を説くなかで、現代という時代を
として、「単純な主義主張を伝えることは、もはや芸術の仕事ではない」と喝破した。そのうえで現代演劇のあり得べき姿については、以下のように述べている。
…常識や経験といった既成の価値観、あるいは特定の思想や宗教にとらわれずに、少なくとも、それらをできるだけ排除し、後退させる形で、世界をありのままに記述すること。そしてその努力の様式。これが、私の考える現代演劇の大きな枠組みである。
- 以上、「演劇入門」平田オリザ 著 (講談社現代新書、1998)
「世界をありのままに記述する」ことへの憧憬。これは前項で指摘した佐藤そして村川の「ドキュメンタリー」の姿勢に繋がるものでもあるが、平田はそれを、大きな物語を批判的に見つめ、映し直すことから始めようとした。こうした演劇のあり方に、今度はドイツの演劇学者ハンス=ティース・レーマンが提唱した「ポストドラマ演劇」の思想を繋げてみたい。レーマンによる「ポストドラマ演劇」が生まれた背景について、演劇研究者の林立騎は以下のように述べる。
…こうして世界をドラマとして理解し、その「主人公」の一人となることに誰もが多かれ少なかれ憧れてしまう状況は、日々その政治的影響力を持ち続けている。ここにこそ「演劇史」の問題があり、演劇の理論と実践にとって根底的に批判すべき状況があると、レーマンは考えてきたように思われる。
複雑な現実世界を「ドラマ」の構造を借りて認識する=矮小化してしまうことの危険性を自覚し、その解体を模索すること。そうした「ポストドラマ的実践」における作家の仕事について、レーマンはオーストリアの劇作家ペーター・ハントケを引き合いに出し、以下のように述べる。
- 以上、「ポストドラマ演劇はいかに政治的か」ハンス=ティース・レーマン 著、林立騎 訳 (白水社、2022)
大きな物語や「ドラマの構造」が失効した現代において、「具体的な個別のこと」を実直に見つめること。取るに足らない日常、その小さな声に耳を澄まし、書くことが、私たちの世界のありのままへ接近する糸口となる。
私たちが『Pamilya』のなかで見届けた、ごくありふれた介護の風景とはまさしくそのようなものだ。福岡の介護福祉施設のジェッサさんとエトウさんという、この世界において途方もなく小さなふたりのあいだには、しかしこの社会のあらゆる様相がそのまま結晶していたのだった。
他人と共にあること
もう一つ考えておきたいのは、この作品が提起する「他者と生きる」ことの可能性について。
本稿の冒頭で紹介した通り、村川は『Pamilya』における介護者と被介護者のあいだに、「他人性」と「接触」が併存していることに関心を抱いている。仕事という利害で結ばれた他人同士であるはずなのに、介護を通じて家族や恋人以上ともいえる身体的/精神的な接触を重ね、相手への思慕が心に宿ること。ここには、いわゆる「共生」という言葉から想起されるようなわかりやすい理解、共有、協働とは手触りの違う、別の様相があるようにも思える。
私たちの世界における出来事の起こりには、「自ら(みずから)進んで行うこと」と「自ずから(おのずから)起こること」の二つがある。通常、私たちが「共生」という言葉を口にするとき、そこには「自ら相手と共に生きる」という自発的、能動態的な意志を表すことが多いが、観客が『Pamilya』の先に見出すのは、むしろ「自ずから共にある」つまり「自然とそうなっていく」ふたりの、他発的、中動態的な「共生」の在り方ではないか。
一度そう仮定したうえで、改めてここまでの内容を振り返ってみると、『Pamilya』という演劇作品は、その表現の形式から主題に至るまで、あるひとつの姿勢に貫かれていたことがわかる。それは、世界/他者の側から発される微かな顕われをじっと受け止めること。そして、そこに自ずと宿るものを歓待すること。
この作品は、世界を、他人を、観客を、驚くほどの謙虚さと実直さで信頼している。
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最後に、この世界の小さな声に耳を澄まし、書き留め続けた翻訳者・作家の藤本和子氏のテキストを紹介することで、本稿の結びとしたい。
私たちは、今よりもっと“あちら側”から届く声に、耳を澄ますことが出来るはずなのだ。
- 「ブルースだってただの唄 黒人女性の仕事と生活」藤本和子 著 (ちくま文庫、2020)
「日常と不在を見つめて ドキュメンタリー映画作家 佐藤真の哲学」(里山社、2016)
「日常という名の鏡 ドキュメンタリー映画の界隈」佐藤真 著(凱風社、1997)
「演劇入門」平田オリザ 著(講談社現代新書、1998)
「ポストドラマ演劇はいかに政治的か」ハンス=ティース・レーマン 著、林立騎 訳(白水社、2022)
「『おのずから』と『みずから』―日本思想の基層」竹内整一 著(ちくま学芸文庫、2023)
「ブルースだってただの唄 黒人女性の仕事と生活」藤本和子 著(ちくま文庫、2020)
三好 剛平(三声舎 代表)