木ノ下歌舞伎『桜姫東文章』 批評文 vol.2
文:宮本聡、鈴木玲雄
1. 不条理な世界
「おーい、せいげーん」「おーい、しらぎくー」現代的なファッションに身をかためた役者たちが楽器を叩きながら、すこし間延びした声を出しながら練り歩いている。その声や動きには、行方不明である清玄と白菊の二人を必死で探すような緊迫した雰囲気はない。これは、上演された『桜姫東文章』の始まりの場面である。古典が題された作品名の中で気が張っている観客たちに対し、その軽妙で独特のゆるさが何ともいえない不思議な感覚を抱かせる。それは舞台上のDJブースからの音と相まって、半ば身体が水の上に浮いてゆっくり流されている状態にいざなわれるようである。
本作品は、鶴屋南北の『桜姫東文章』(1817)を原作にしている。木ノ下裕一氏の監修・補綴、岡田利規氏の演出で、古典作品を現代演劇に大胆に生まれ変わらせており、随所に見られる舞台上の演出によって、古典の世界を新しい形で表出している。現代的なファッションや台詞回しの所々に現代のポップな口語が散りばめられる一方で、時代背景は家父長制をはじめとする旧制度の息づく近世の日本社会というようなハイブリットな雰囲気が舞台上に現れている。なぜか常に背伸びしながら行動する七郎、多方向からの情念に晒されながらも抑揚をおさえた口調の桜姫など、役者たちはそれぞれ演じる登場人物に応じて独特な身体や言葉の使い方をしており、口から出る言葉と身体の動きの繋がりに解釈することの難しさを覚える1)。まるで一人の役者の中で言葉と身体が時に葛藤を引き起こしながらも進んでいくようで、そのことが返ってリアルな人間の生の有り様を照射しているようでもある。近世/現代、言葉/身体、そして観客たちの戸惑いなど、それらの複数のリズム2)が時に不協和を起こしながらも絡みながら進むポリリズムを感覚される。
本公演においての作品世界は不条理な生死や暴力、因果への執着などといった、現代の価値観からすると共感や納得できない混沌とした出来事が繰り広げられる。目の前で繰り広げられる不条理な世界にどの立場からいかに向き合ったらいいのか、観客にはそのような問いかけがなされているようである。舞台上の役者たちの作品世界への向き合いかたも印象的であった。近世の家父長制やジェンダー観が色濃く現れるシーンに対して、次幕にて小雛と半十郎の不条理な死を目撃した土手助が、源吾へとその顛末を報告している際に「常軌を逸してますよね歌舞伎」という台詞を吐くのは象徴的である。観客たちも武家社会の息苦しさや憤りを感じたためだろうか、そのセリフの時に客席の空気がフッとゆるむ。公演パンフレットにて、演出の岡田氏は本作品への演出にあたって行ったことを歌舞伎のさまざまな構成要素やコンセプトを含めての「翻訳」という言葉で表している。役者の配置など、作品世界自体へと意識を向けるポジションに役者たちが置かれる瞬間が散りばめられている。役者自身も第1・2の観客として作品世界を考察しているようでもあり、観客にとっては目の前で繰り広げられる鶴屋南北の作品世界の持つ不条理な部分に向き合うための案内人(「ガイド」)のようでもある。
2. 「ひらく」ということ
本公演では古典の作品世界への橋渡し(「翻訳」)を行うことと同時に、これまで舞台や演劇の場へのアクセスが限られていた人たちを橋渡し(「情報保障」)する試みもなされている。作品の終演後にお話を伺った木ノ下氏は「歌舞伎をひらく」という言葉を語られたが、この「ひらく」ということは複数の意味合いを読みとることができる。過去の時代の歌舞伎演目を時代に対してひらくこと、同時に作品が上演される環境自体への働きかけもこの「ひらく」ということに含意されている。そのため劇場においての包摂的な取り組み、中でも観劇サポートを取り入れている。久留米シティプラザでの本上演で実施された観劇サポートは、障害等、様々な人たちが劇場に足を運び、ともに作品を享受することができるように観劇の環境に働きかける取り組みであった。以降では、本公演の観劇サポートについて、ともに観劇した福岡でろう者の劇団を主宰する鈴木玲雄氏と私の経験を混ぜ合わせて書いている。
観劇サポートが主に実施された3月5日(日)の公演では、白杖を持たれた方や手話を使われている方、支援者や同伴者、介助者といった様々な人たちが久留米座入り口にある受付にやってきた。手話通訳者がろうの方への案内をしたり、劇場スタッフが手話通訳者とともに、それぞれのガイド機器の使用に関する説明を丁寧に行っていたり、音声言語や身振りなどが複数混じり合う風景があった。観劇の経験というものは、作品の観劇だけではなく、劇場へ足を運ぶ・受付・チケットの受け渡し・入場・観劇・劇場を後にするといった一連の行為が流れるように重なって形づくられる。何度も劇場に足を運ぶ人にとっては、ある程度定式化されたベースのリズムであるが、本作においては、その流れに複数の異なる身体からのリズムが絡み合う状況が生まれていた。
一方で様々な行為が連続する演劇の時間は、細かな場面で多くの情報が飛び交っている。そのような中で同じ場を過ごすための共有されたリズムが、ある人にとっては「ノイズ」のようなものになる瞬間もある。例えば、ろう者の身体から上演中に戸惑ったこととして、「受付時は手話通訳があったが、会場に入るまでの案内は一般の方と同じように入るのかどうか、その流れが示されてなかったため戸惑った」「休憩時間中のホワイエで、スタッフが後半部の開始時間を呼び掛けていたようだったが、わからずに周りの空気やきこえる友人と手話通訳を観て座席に戻った」という出来事があった。こういったリズムのズレは、その場でベースとなっている身体からは気づかない形で進行している場合がある。その都度状況が異なるため、往々にしてマニュアルからこぼれ落ちていくものである。一方で終演後、手話通訳者やろう者、支援者の方々やスタッフの方々がお話しをされている様子があった。今回の上演においての困難さを感じた場面のフィードバックなどがあったのかもしれない。生身の身体をもって場所を共在する状況で、その具体的なズレを通じて誰かを理解していくこと、そして場の中で理解を蓄積し、そのことで更に様々な人々に開かれていく、そのような場としての演劇や劇場の持つ可能性の一つを感じさせる。
上演中には、2つの観劇ガイドの取り組みがなされていた。1つ目は、「リアルタイム音声ガイド」、2つ目は「ポータブル字幕機」である。前者は主に視覚に障害のある方が、後者は聴覚に障害のある方が、作品を享受するための「情報保障」の取り組みである。音声ガイドにおいては、舞台上の空間についての説明や役者たちの衣裳や動きまで作品への細やかな説明がなされていた。舞台表現は一回性があるため、リアルタイムでの音声ガイドがなされているが、それゆえに共に同じ舞台を観ていることが感じられ、観劇における「伴奏者」のようなあたたかい感覚を覚える。字幕機においては、ポータブルになっており個人の目線や姿勢に合わせて位置をカスタマイズすることができる。さらに字幕ガイドの中身にしても、上演中の役者たちの台詞を流すだけではなく、音楽や効果音などの表示、前のセリフに戻ったり、作品に関わる情報、登場人物の構成などが確認できたりといった機能を有していた。字幕を使用されている方々の様子を伺ってみると、登場人物の構成を確認している姿などがあり、『桜姫東文章』のような人物背景の複雑さに対して、内容の理解を助けてくれていたようであった。聴覚、視覚に障害のある人の身体性と言っても一つのペルソナには還元することができない多様性・個別性(身体・障害経験・趣向など)がある。それに対して本公演で使用された字幕機は、個人に合わせてパーソナライズ可能な方向に伸びたガイドという意味があった。
観劇ガイドについて記述を行ってきたが、このような「情報保障」とされる取り組みは作品世界に何をもたらしうるのだろうか。なぜ、このようなことを問うのかというと、劇場で様々な身体性のある人たちがともに観劇することと、作品自体における世界やその意味とのつながりを考えていかない限り、容易に予算や人的資源といった外の論理に飲み込まれ閉じていってしまうのではないかと思われるからである。字幕や舞台手話通訳など「情報保障」は、いわゆる演劇作品の持つ「芸術性」と相容れない時があると指摘されることがあるが、その両者のリズムは果たして絡みあうことができるのだろうか。上演中の舞台上には、一幕のシーンごとに2〜3行ほどの「あらすじ」が表示されていた。例えば、上述した不条理なシーンについて、「小雛と半十郎、無実の罪で殺される」と舞台上に示されている。この字幕表示は、作品の演出であるのかもしれない。しかし障害の有無にかかわらず、観劇ガイドを必要としない観客たちにとっても、字幕が媒介となり舞台で繰り広げられる出来事を解釈する手掛かりや不条理な作品世界に向き合う足掛かりとして、半ば「ガイド」のような存在を果たしていたと感じる。
このように本公演において、客席にも舞台上にも観劇のための様々な媒介するものがあり、それを通じて作品世界への複数の回路が舞台と観客の間を流れていた。媒介するものに対して「メディア(媒体)はメッセージである」(M.マクルーハン)という考え方もあるが、もしそうであるのならば観劇ガイドの取り組みは、単に特定の人たちのためのツールとしての意味だけではなく、作品それ自体の世界の広がりに関わるものであると考えることもできる。久留米シティプラザでの取り組みは、様々な身体性のある人たちが同じ場で共在し観劇する時間ともに、作品世界自体が豊かにひらかれることとも連なっていたのではないだろうか。
3. 観劇後の出来事
公演を見終わった後にともに観劇した鈴木氏や鈴木氏の知人と久留米市にあるカフェに行き、『桜姫東文章』の感想などの話に花を咲かせた。そのカフェは手話を用いて注文をとったり、コミュニケーションしたりと、聴者であり手話話者ではない私自身にとっては自分の身体とは異なるリズムの流れる場に来た感覚があった。はじめに手話で話しかけられた時は、妙にぎこちない動きとそれに合わない笑顔をしていただろう。上演後であったためか、私たちが過ごしていた場において、流れていたものを考えさせられる。この出来事もまた今回の『桜姫東文章』の観劇の延長として存在している気がしてならない。少なくとも劇場での感覚したリズムが、その外においても着実に身体に絡み合いながら、そこにあったということである。
1) 岡田氏は以前の著書の中で、この動きと言葉の関係について、「言葉としぐさの関係を直接の線を引いて図示できるようなものとして捉えること、それから、その線に沿った経路でしぐさを言葉から生成されたものとしてパフォームしてしまうことはダメなことだと思ってます」[岡田 2013:198]と述べている。その上で、「しぐさは、言葉からではなく、〈イメージ〉から生成されてくるもの」[199]であり、「言葉もまた〈イメージ〉から生成されてくるものとしてパフォームされるべきもの」[ibid]としている。この〈イメージ〉は、形になる前の状態であり形にされるのを待っている状態であり、言語学でいう「シニフィエ」(シニフィエ:意味されるもの/シニフィアン:意味するもの)という言葉で表すことが近しいとしている。その中で言葉としぐさは、「シニフィエ」を通じて、まるで兄弟のような関係で間接的に繋がっているものであるとする。その上で言葉のリズム、しぐさのリズムといった複数のリズムが並行して身体を走ること、その拮抗が「スリルを惹起する」[205]としている。
2) 音楽に関連した言葉として用いられることの多いリズム(rhythm)という言葉であるが、その語源であるギリシャ語の名詞リュトモス(rhythmos)と近しい意味で使用している。リュトモスは、「流れる」を意味する動詞レオー(rheo)に由来する。
岡田利規2013『遡行 変形していくための演劇論』河出書房新社
M.マクルーハン1987『メディア論 人間拡張の諸相』みすず書房
宮本 聡(九州大学人間環境学研究院 特任助教 修士(感性学))
鈴木 玲雄(手話劇団「福岡ろう劇団博多」団長)