『フクローじいさんとベル子ちゃん』 批評文 vol.2
子どもと演劇の出会い
文:山﨑智子
去る4月29日(土・祝)、30日(日)に久留米シティプラザのキッズプログラム2023『フクローじいさんとベル子ちゃん』が上演された。これまで比較的劇場に足を運ぶ機会は多かったが、この日の観劇は少しばかり緊張していた。
それというのも、5歳になったばかりの息子と一緒に行く初めての舞台だったからだ。日ごろから活発で、声が大きい息子。かわいい盛りだが、この元気いっぱいさは観劇となると不安要素ともなる。
「周りのお客さんへの迷惑にならないか」「演者さんを不快にさせないか」。
この種の不安は子を持つ親にとっては、日ごろからよく感じているものではないだろうか。しかし、これは子ども向けプログラム。観客はみな同志たちだ。加えてチケット代も小学生以下は無料、中学生以上でも500円というお手ごろさ。途中退席することになったとしても悔しがらずにすむ金額というのは、なんともありがたい。
さて、演目である『フクローじいさんとベル子ちゃん』は、子ども向けということ以外に2つの大きな特徴がある。1つは、セリフのないノンバーバルコメディであること、もう1つは演者のひとりである森田かずよさんが「二分脊椎症・側弯症」という障がいを持っていることだ。森田さんは、2021年に開催された東京パラリンピックの開会式にも出演していたので、パフォーマンスを目にした人も少なくないだろう。はたして言葉がない劇を息子は理解できるのか、障がいを抱える人を見てどう感じるのか。親としても未知数である。
開演10分前。劇場に足を踏み入れると、すでにパフォーマンスが始まっていた。目次立樹さん扮する年老いたフクロウが観客席の前に小道具で作られた焚火に当たっている。会場である久留米シティプラザ Cボックスの客席数は通常144。しかし今回は演出上、会場全体の2/3程のスペースしか使用しておらず、客席数も半分程度に抑えていた。そんな小さめの会場だからこそ、フクローじいさんが劇場内にいるインパクトは大きい。目をまん丸にして、足を止める息子。最初にどう関心を持ってもらえるかが子ども向けコンテンツでは鍵となるが、まんまと心をつかまれたようである。それもそのはず、出演に加えて本公演の作・演出もつとめる目次さんは、NHK Eテレ『おかあさんといっしょ』内の人形劇『ファンターネ!』の原案・作を手掛けるなど、子どもの感性や特性を熟知している人なのだ。
客席が次第に埋まってくると、あらかじめ会場内に散りばめられた薪を拾ってくるようフクローじいさんがジェスチャーで子どもたちにお願いをする。すぐに理解して、近くの薪に駆け寄る子どもたち。拾った薪をフクローじいさんに手渡すと、感謝を仕草で表現される。演者と観客がコミュニケーションをとった瞬間に参加型コンテンツとなり、子どもたちは否が応でもこれから始まる物語の世界に引き込まれていく。
開演時間がせまり、スタッフから「動いても、声を出しても、退場しても大丈夫」という旨のアナウンスがされる。この声掛けがなんとありがたいことか。0歳から観劇できる公演のため、ある程度の粗相が許容されることは事前にわかっていたが、あらためて公式的に伝えられることで安心感が高まる。
さぁ、いよいよ開演だ。フクローじいさんは宝箱を取り出し、ふたを開けると中にはたくさんの金貨が。1枚ずつ机の上に重ねていく仕草をすると、金貨がどんどん高く積み上がっていく。数珠つなぎにした金貨が机の下に忍ばせてあり、テグスで天井から引き上げていく仕組みだ。あまりに勢いよく高さを増していく様に子どもたちから「わぁ!」と歓声があがる。その高さ、およそ3メートル。少し大げさな表現が子ども目線でも分かりやすく、説明がなくともフクローじいさんが金貨を大切に貯めこんでいることが一目で分かる。
そこへ、森田さん演じる花売りのベル子ちゃんが登場。腕に抱えた花をフクローじいさんに売ろうとするものの、お金を払いたくないフクローじいさんにさっさと追い出されてしまう。
ふたりのやりとりに意味のあるセリフはない。言葉のかわりに口から飛び出すのは「ハナモゲラ(言葉遊び)」。ハナモゲラは、福岡出身のタレント・タモリさんが「初めて日本語を聞いた外国人の耳に聞こえる日本語」の物真似をしたものが始まりとされる、言葉のようで言葉でない音声のこと。どこか知らない国の会話を聞いているような不思議な感覚になる。
言葉に頼れないことで、演者は顔の表情、仕草、声の調子ですべてを表現しなければならない。しかも、相手は小さな子どもたち。演じる側にとって難易度が高い芝居である。
一方の観客もまた言葉で得られる情報がない分、想像をふくらませる必要がある。この仕草は何をしようとしているのか、この声の調子は? 意味のあるセリフがない分、子どもたちは頭の中でセリフを紡ぎ出していく。息子も時おり「こんな風に話しているんじゃない?」と自分で考えた解釈を教えてくれる。物語の筋道はフクローじいさんとベル子ちゃんが示してくれながらも、最後に仕上げていくのは子どもたち自身なのである。YouTubeや遊び方が決まったおもちゃなど、想像力を働かせる機会が少なくなった現代の子どもたちにとって、この観劇体験は貴重なものではないだろうか。
中盤では切ないシーンが展開される。ベル子ちゃんは病気のおばあちゃんの薬のために働き、フクローじいさんには離れて暮らす家族がいる。それぞれの背景を描き出すことで、彼らの行動への理解が深まり、大人も物語の世界に没頭していく。子どもたちは細かいところまでは理解できないかもしれないが、みな真剣に舞台を見つめている。
あるとき街に出かけたフクローじいさんは、花売りをしているベル子ちゃんを偶然目にする。誰も足を止めず、花は1本も売れない。不憫に思ったフクローじいさんは正体を隠し、ベル子ちゃんが持つ花をすべて買い取る。言葉はなくとも、物語の構成によってフクローじいさんのベル子ちゃんに対する思いの変化が表現されている
クライマックスはベル子ちゃんの引っ越しシーンだ。ベル子ちゃんが乗った引っ越しトラックを一生懸命追うフクローじいさん。嵐の中、必死で走り、そして羽ばたく。ようやく追いついたフクローじいさんは、ベル子ちゃんに餞別の品を渡す。ベル子ちゃんが包みから取り出したのは可愛らしい赤い靴。早速、履こうとするベル子ちゃん。そこで初めて義足をつけた森田さんの脚に視線が向けられる。一人の子が「あれ?」と声をあげる。義足の存在に気が付いたようだ。しかし、ただそれだけで、すぐに物語の世界に戻る。ただ、あるがままを受け止めているように感じた。子どもたちの目には、森田さんはただベル子ちゃんとしてだけ映っている。障がい者としてではなく、ベル子ちゃんとして、役者として捉えているのだ。私たち大人は障がいがある人と接するとき、必要以上に障がいのことを意識し過ぎていないだろうか。もちろん手助けが必要なときもあるだろう。けれども、もっと彼ら彼女らの人間性や能力に心を向けるべきなのかもしれない。子どもたちが森田さんの演技に夢中になったように。
終演後、息子に感想を尋ねると「楽しかった」と目を細めた。どう楽しかったのかを自分の言葉で説明することはまだ難しそうだが、上演中の表情や話しかけてくる言葉で彼なりに舞台を楽しんでくれたことが分かる。公演日からしばらく経った後も、街でフクロウのイラストを見つけると「ママ! フクローじいさんがいる!」と嬉しそうに話しかけてきたり、家で過ごしていたとき唐突に「フクローじいさんは何回もドアを開けたり閉めたりしていたね。なんでだろ?」と尋ねてきたことも。「なんでだと思う?」と問い返すと「フクローじいさんはお金を集めていたから、お金をとりにくる人がいないか確かめていたんじゃない?」と得意顔で答えてくれた。
「舞台はまだ早いかも」「セリフがないと理解できないかも」。
そんなことは親の杞憂だった。体験してみると、その子なりに感じ取ってくれるものがあり、世の中にはこんなエンターテイメントがある、ということを知ってもらうだけでもいいと感じた。目と耳と、そして心を刺激する舞台は、きっと彼らの人生を豊かにすることにつながっていくはずだ。
山﨑 智子(ライター)