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ダンス公演『ククノチ テクテク マナツノ ボウケン』批評文

久留米シティプラザでは、より開かれた劇場を目指し、久留米シティプラザが主催した自主事業公演の記憶を広く永く共有していくために、舞台写真とともに批評文を公開いたします。
 
2022年8月14日に久留米シティプラザ 久留米座にて上演した、ダンス公演『ククノチ テクテク マナツノ ボウケン』について、久留米大学教員でイギリス文学研究者の田中優子さんに批評文をご執筆いただきました。
 
 
 
異世界への入り口はどこだ
文:田中 優子
 
 

「宿題やったの?歯は磨いたの?お部屋のお掃除自分でできる?」
夏休みの子どもが親から言われる小言のような言葉が、音楽と混ざり、ささやくように、テンポの良いリズムで聞こえてくる。舞台上に男の子が現れる。照明がだんだん暗くなる―――ダンス公演『ククノチ テクテク マナツノ ボウケン』はこのように始まった。
作品のテーマは、祖先の霊を迎え、また見送る仏事である「お盆」である。夏休みに、ひとりぼっちで公園で遊ぶ男の子が、森の精霊たちと出会い、一緒に遊ぶうちに不思議なボウケンの旅へ出かけ、木の神様ククノチに出会う。ククノチは「ぼくたちはこの世界のほんの小さな一部なのだ」と述べ、人間の命は死後自然に還るのだと語り掛ける。精霊たちとダンスを踊っていた男の子は、最後にふたたび現実世界へと戻ってくる。
振付・演出を北村明子、舞台美術を大小島真木、音楽を横山裕章が手掛け、2021年に初演された本作品は、2022年8月14日に久留米シティプラザで上演された。2022年度は、久留米に先立ち7月20-24日に制作元であるKAAT神奈川芸術劇場で上演され、久留米の後に8月23-24日の愛知県豊橋市へと続く。日本地図上を東から西へ、そしてふたたび東へと移動する上演スケジュールの、久留米公演は折り返し地点であった。「お盆」がテーマとなっている本作品は、偶然にも、久留米公演が唯一「お盆」期間での上演となった。現実から異世界へ、そしてまた現実へと戻るこの円環の物語に、観客は何を見出すのだろうか。

 

通常、作品において現実世界から異世界へ赴く際、その入り口が明示されることが多い。
『不思議の国のアリス』でアリスはウサギを追いかけて穴に落ちるし、『となりのトトロ』でもメイちゃん(と後にサツキちゃんも)は木の根っこ部分にあいた穴に落ちて大トトロのお腹の上にたどり着く。本作品と同様にひとりぼっちの男の子が異世界へ赴き現実に戻ってくるお話である絵本『めっきらもっきらどおんどん』でも、主人公の男の子は神社の木の根元の穴から、知らない世界の山へと吸い込まれていった。
『ククノチ テクテク マナツノ ボウケン』では、その明確な入り口は「手」だったのではないか。
舞台上に遊具のように置かれたオブジェのひとつに、大きな手があった。はじめ男の子はひとりで遊んでいるが、舞台にはだんだん精霊たちが現れ、思い思いに踊っている。そのうち精霊のひとりと男の子は一緒に遊びだしたかのように見える。しかし、男の子に精霊は見えていない。精霊が目隠しのような動きをしたり、手をたたいたりしても、男の子はその気配を感じるが、精霊と目を合わせることはない。やがて舞台右手にある手のオブジェが気になりだし、自分の手を重ねたとたん、その精霊が見えるようになった。見えたときの喜びの様子から、その精霊は、男の子がとても会いたかった人物なのだろう。公演パンフレットによると、その人物とは、死んでしまった友達で、男の子はその友達の霊に再会した、ということらしい。彼と遊ぶうち、周りにすでにいた他の精霊たちも見えてくる。こうして彼は、本格的に不思議の世界へと入っていく。そして入口同様、出口も「手」であった。作品の終盤で、観客が客席からダンスに参加し、男の子と精霊たちのダンスも盛り上がりを見せた後、舞台は暗転する。再び照明が明るくなったとき、男の子は冒頭と同じ手のオブジェに手を重ねているかたちでひとり舞台に立っている。これにより、彼が現実世界へと戻ってきたことがわかる。
演出の北村明子は「接触」に敏感だったと語っていたが、本作品において、手と手が触れることは、時空を超えて異世界へと誘うほどの力を持つに違いない[1]。触れることによって見えるようになり、それに伴い男の子の精神世界が大きく拡がっていくのがわかる。そして精霊が見えてからの踊りは、どんどん盛り上がりをみせる。友達(の霊)と男の子の、お互いの動きをまねし合って駆け回る遊びには、客席からも笑い声があがっていた。
異世界への旅のはじまりと終わりに、身体の一部が強調されるのはなぜだろうか。異世界への旅とは、精神世界への旅、ともいえるので、精神↔物質・身体という対義語関係からいうと、異世界と身体・肉体とは相反するもののようにも思える。しかし、精神世界への旅を描くこのダンス公演で、身体が強調されていたのは明らかだ。そもそもダンス自体が身体を用いて表現をする行為であるし、男の子がひとりで遊んでいた場所(公園とされている)で、遊具に見立てられているのはろっ骨、心臓、耳、目、そして手など臓器や身体のモチーフである。精霊は時折それらのモチーフを持ち上げ、耳で聞くことを促すような動作をしたり、口でささやくような動作をしたりしていた。さらに終盤にかけての厳かな場面において、精霊は心臓のモチーフを大事そうに運び、場内にはドクドクという音が鳴り響いた。これらのモチーフとなった身体とは、私たちにとって何だろうか。それは私たちに最も近いところにあるもの、ではないか。私という存在、私の命は、身体があってはじめて成り立つ。私の命があるからこそ私は存在し、存在するからこそ私の精神世界は広がる。身体が異世界への入り口であるという設定は、異世界が私たちの身近にあり得ることを示唆しているのではないだろうか。
身近にある異世界ということを考えると、そもそも舞台上において、現実世界と異世界はそれほど明確に区別されてはいなかったのではないか。先に述べたように、男の子が冒頭で遊んでいる場所は、夏休みの公園という設定とされているが、およそ普通の公園には似つかわしくなく、臓器や身体のモチーフが遊具かのように見立てられている。この公園自体が十分不思議な世界である。「現実」と見立てられている場面が、はじめから現実離れしているのだ。
また、開演前からその不思議の世界は始まっていた。観客は会場につくとまず受付前でお面作りをする。受付に用意されたいくつかのお面とイラストの紙の中から好きなものを選び、それらを好きな形に切り貼りして、自分だけのお面をつくる。お面をかぶり、いつもの自分と違う自分になる準備をしているのだ。
もっといえば、久留米シティプラザ内における久留米座の位置も、異世界への入り口として効果的だったのではないか。まず、すべてのエスカレーターから久留米座へ行けるわけではない。久留米シティプラザ中央に多層構造のザ・グランドホールがあるためか、西側のエスカレーター、あるいはエレベーターからしかたどり着けない。道が限られていることは、それ自体が小さな冒険のようにも思える。その限られた入り口のひとつである細いエスカレーターをあがり、少し細い道を進むと、「久留米座」と書かれた提灯が目に入る。ふたつぶらさがった大きな提灯は、ここを日常とは違う場所だと思わせてくれる。
作品の終盤、現実世界に戻ってきた男の子は、ふたたび精霊のことが見えなくなる。しかし、彼はおそらく見えない精霊のことを感じている。見えていなくても、彼の踊りは精霊のそれと共鳴し、一緒に踊っているかのようであった。北村明子は「ダンスは生物」であり、形はみえないけれども周囲にいるもの、創り出すというよりすでにあるものととらえ、「運が良ければダンスに会える」と語っていたが、この作品でまさに男の子は、偶然出会えた精霊、そして彼らとのダンスを、見つけ、自分のものとし、体に刻み込んでいる[2]。ひと夏の冒険も、精霊たちのことも、これからも男の子の無意識の中に生き続けていくのだろう。作品の最後、精霊はふたたびいなくなるが、男の子はうれしそうにひとりで踊り続ける。異世界への明確な入り口などなくとも、自らのすぐそばにいる精霊や異世界を感じているような、日常の中にある喜びの踊りだ。
『ククノチ テクテク マナツノ ボウケン』が観客に見せてくれたのは、ここにある異世界だ。異世界への入り口は、私たちの中にもすぐそばにもあるのだ。劇場と舞台の上と、観客がダンスに参加することで客席にも、そして観客の身体そのものにも、異世界への小さな入り口が身近にたくさんあることを、観客は見つけることができるのだ。

 

公演後、久留米シティプラザを出ると、商店街の向かいの建物にいまはなき「久留米 東映劇場」の看板を見た。久留米で生まれ育った筆者にとっては子どものころに兄たちと一緒に立ち見をした思い出のある懐かしい映画館だ。久留米シティプラザも、その前身は久留米井筒屋デパートで、かつて母とあんみつを食べにきた思い出も蘇った。思い出も異世界への入り口だろうか。
本公演はキッズプログラムの一環であることから、当日の観客は親子連れがほとんどだったが、年配のご夫婦二人組らしき方もいた。観客はそれぞれの身体を携えて劇場にやってくる。劇場とは、さまざまな人の、それぞれの身体の内側にある異世界が集まる場所とよべるのかもしれない。

 
注:
[1] 北村00:21:54-00:22:34
[2] 北村00:40:24-00:41:27
 
<参考文献>
北村明子『からだが語り得ること-コンテンポラリーダンスの現在から-』JIAトーク2021、2021年5月11日。YOU TUBE動画はこちら
キャロル、ルイス『不思議のアリス』脇明子 訳、岩波書店、2000年。
『となりのトトロ』宮崎駿 監督、スタジオジブリ、1988年、DVD。
長谷川摂子『めっきらもっきらどおんどん』ふりやなな画、福音館書店、2012年。
 
 

田中 優子(久留米大学教員、イギリス文学研究者)

福岡県久留米市生まれ。久留米大学文学部国際文化学科准教授。九州大学大学院人文科学府 博士後期課程単位取得満期退学。2010-11年度ロータリー財団国際親善奨学生として、久留米ロータリークラブより派遣され、イギリス Newcastle University大学院へ留学。専門は19世紀イギリス児童文学、ジョージ・マクドナルド(1824-1905)の子供向け作品、近代絵本。
 
 

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ダンス公演『ククノチ テクテク マナツノ ボウケン』批評文

2022年11月07日