安徳天皇とは?
平安時代末期、台頭する武士の中で栄華を極めたのが平家の棟梁・平清盛です。太政大臣となり、政治的にも強い影響力を持つようになった清盛は、娘・徳子を天皇の妃としました。そして生まれた皇子が、後の安徳天皇。しかし、打倒平家の動きが活発になると東国の源氏が勢いを増し、平家一族は西へと落ち延びていきます。その中に、三種の神器を携えた安徳天皇の姿もありました。
安徳天皇(1178-1185)とは?
第81代天皇。外祖父である平清盛の権力のもと、1180年に数え3歳(満1歳)で即位しました。のちに源氏に追われ、三種の神器とともに都落ちする中、壇ノ浦の合戦で平家が壊滅。祖母・二位の尼(平時子・清盛の妻)に抱かれて数え8歳(満6歳)で入水しました。
安徳天皇の墓所は、宮内庁が管理する天皇陵(山口県下関市)のほか、宮内庁指定の陵墓参考地も複数存在。九州・四国を中心とした各地に生存説が残っています。久留米の水天宮にも、安徳天皇は官女の按察使局伊勢(あぜちのつぼねいせ・水天宮の創始者)に守られて筑後に潜幸(せんこう・天皇が密かに逃れること)したという伝承があり、安徳天皇・高倉平中宮(母・徳子)二位の尼が祀られています。
久留米の安徳天皇潜幸説
安徳天皇が潜幸したという伝承は、水天宮以外にもたくさん残されています。もともと平家は西国を拠点としており、清盛が大宰大弐(大宰府の次官)に就任したり、筑後地方に清盛の弟・頼盛の荘園があったりと、平家ゆかりの地が多かったせいかもしれません。
安徳部では、平家にまつわる神社仏閣などの史跡を取材した「行ってみよう!平家伝説スポット」や、各地に伝わる昔話を‟ちっご弁”とともにお届けする「みみで楽しむ久留米のむかし話」など、様々な視点から潜幸説をひも解いて行きます。