百瀬 文「わたしのほころび」 批評文 vol.1
文:冨永 絵美
1.はじめに
「わたし」とは何か。私たちはこの問いへの答えを当然持っている、と素朴に信じて日々を送っている。
はじめからあまりにも自明のものであるとされている、「わたし」という存在。今、この場で意志を持ち、その意思によって身体を動かし、他者と関わるもの。他者とは違うもの。
だが、「わたし」とは本当に自明のものなのか。私が認識する「わたし」の形は、固定的で動かざるものなのだろうか。
百瀬文「わたしのほころび」は、「わたし」という存在を改めて問い直すプロジェクトだ。
耳の聞こえない女性と耳の聞こえる男性との手話による対話を描く「Social Dance」、リヒャルト・シュトラウスのオペラ「サロメ」の歌曲を、モーションキャプチャースーツを装着した男性と3DCGの女性キャラクターが演じる「Jokanaan」、百瀬自身が模写した獣姦の絵を、山羊に食べさせようとする試みを映す「山羊を抱く/貧しき文法」の三つの映像作品、および、アンケートを用いた参加型パフォーマンス「定点観測」の全四作品で構成される本プロジェクトについて、作品の内容を追いながら述べていきたい。
2.私が見ているもの-「Social Dance」・「Jokanaan」
「Social Dance」
黒いワンピースをまとってベッドに横たわる女性と、彼女に背を向けて壁際の机でPCに向かう男性。女性がベッドを叩いて男性に呼びかける音が静かな室内に大きく響く。作品のはじめから、二人の関係性は緊迫感をはらんでいる。
やっと女性の方へと向き直った男性は、彼女の手を自らの両手で優しく包み、その後二人は手話による会話を始める。画面の中央にレモンイエローの文字で日本語と英語の字幕が表示され、二人の手話での発話のスピードに連動して左から右へと流れる。鑑賞者は手話と字幕の二つの表現によって、会話を「目で見る」ことになる。
対話の中で、女性は過去の男性の発言や対応に対する不満を訴えている。しかし、男性は女性の不満と必死の訴えを、納得して受け止めることができない。なだめるように重ねられていた手は、徐々に女性の手の動きを阻害する、つまり発話を制限する方向へと変化していく。作品の後半では止められても発言しようとする女性の手を、男性は息が荒くなるほどの力で抑え込んでいる。手の動きと連動している字幕が、途切れ途切れにしか発言することができない女性の言葉を画面に投影する。男性が女性の言葉を暴力によって奪う姿が、「目に見える」形でくっきりと画面に映し出される。
力による制圧の末に無抵抗となった女性に対し、男性は「大丈夫」「これからはうまくいく」という無根拠な言葉を残して再び背を向けてしまう。
しかし、しばらくの沈黙の後、女性は語り出す。その語りかけは男性にではなく、画面の外で作品を鑑賞している私たちに向けられている。1)
日本ではソシアルダンスと呼ばれる社交ダンスは、基本的に男女ペアで行われるものだ。「Social Dance」というタイトルに沿って人物の対話をダンスと捉えた時、この女性が踊っている相手は誰だろうか。
鑑賞者への語りの中で、女性は「あの時」の男性との会話が現実の出来事だったかどうかはよく分からない、と述べる。この発言には、私たち鑑賞者が見てきた二人の対話の時間である「あの時」は、女性の回想、もしくは空想だった可能性が示唆されている。
マジョリティとマイノリティ、ジェンダー、暴力を振るうものと振るわれるもの。いくつもの力関係の勾配によって、自身の言葉は男性には届かないものと彼女は諦めている。女性が心情を打ち明け、理解を求める相手、つまり女性のダンスの相手は、はじめから作品の外部にいる私たち鑑賞者だったのではないだろうか。
鑑賞していると思っていた作品に、実は強制的に自分も参加させられていることに気付く。そういった、鑑賞者自身の立ち位置がぐるりと転換するような体験を、この作品は作り出している。
「Jokanaan」
同じサイズの二つの大型ディスプレイに、映像が投影されている。
左側には人物の動きをデジタル化して記録する装置であるモーションキャプチャースーツを装着した男性、右側には3DCGで構築された女性のキャラクター。少し映像の知識がある人なら、この構成を見た瞬間に左側の男性の動きをデータ化して右側の3DCGの女性を動かす、つまり男性が3DCGの女性を操作するのだと推測してしまうだろう。
そしてその推測通りに、映像の中ほどまでは男性の動きとCGキャラクターの動きは連動しているように見える。しかし徐々に二人の動作はずれ始め、男性は自身の操作を外れてあたかも意志を持って動いているかのようなキャラクターの振る舞いに、戸惑いの表情を浮かべて演技を止める。
映像の細部を見ていくと、男性と女性キャラクターの動作には冒頭からわずかながら差異があることに気づく。モーションキャプチャーが体の各所にある点のみで演技者の動作を捉えて記録し、再現する装置である以上、女性キャラクターの表情や指先の細かい動きなどは3DCGの製作者が作り出したものだということになる。実は二人は、はじめから別々の存在として同じ歌曲を演じていたのだ。鑑賞者が見ていると思っていた、人間と3DCGとの主と従の関係はそもそもどこにも存在していなかった。
ここで、「サロメ」というキャラクターについて考えてみたい。
実らない恋の代償としてヨカナーンの生首を欲するサロメは、男を破滅に導く〈ファム・ファタル〉の典型として絵画、戯曲、オペラなどで描かれ、そのイメージは現代にも受け継がれている。2)
リヒャルト・シュトラウスのオペラ「サロメ」は、〈ファム・ファタル〉としてのサロメのイメージを決定づけたオスカー・ワイルドの戯曲を基にしたもの。本作ではオペラのクライマックスの場面でヨカナーンの首を手にしたサロメが歌う歌曲が用いられている。
エピソードの原典にあたる新約聖書には、「ヘロデはヨハネを殺そうと思っていた」3)とある。そもそもヨカナーンの死を望んでいたのはサロメ自身ではなく、彼女の義父であるヘロデ王なのだ。サロメはヘロデ王の欲望を共有した母・ヘロディアに「唆され」たに過ぎない。
しかし、ワイルドの戯曲では、サロメは一転して「ただ自分の心の欲するまま」にヨカナーンの死を望む女として描かれる。 4) 元々の欲望の持ち主であったはずのエロド(ヘロデ王)は、ヨカナーンの殺害を拒み、サロメを諭す存在へと書き換えられている。
「Jokanaan」で私たちが見せられているのは、いったい誰の欲望なのだろうか。
〈ファム・ファタル〉としてのサロメ像を描いてきたのは、モロー、フローベール 、ワイルド、シュトラウスといった男性の作者たちだ。「破滅を招く蠱惑的な女性」を求める男性たちの欲望こそが、〈ファム・ファタル〉の表象を作り出していったのではないか。
歴史的に見てアートや文化の作り手の割合は大きく男性に偏っている。その結果として、男性視点による女性像が創作され、継承されてきた。そして、本作のように作者が女性に変わっても、血に染まりながら男の生首を求めるサロメの〈ファム・ファタル〉としてのイメージはそのまま受け継がれている。本作のサロメが現実の身体を持たない3DCGのキャラクターであることは、〈ファム・ファタル〉の表象が男性の欲望の幻影である事を図らずも示唆しているかのようだ。
前述の通り、本作では同じサイズの二つのディスプレイに二つの映像が投影されているため、鑑賞者は視線を定めにくく、キャラクターの心情に寄り添って作品に没入することが難しい。上映されている映像は鑑賞者の予断を裏切り、「モーションキャプチャーによって操作された3DCG」と映像の内実はずれていく。さらにそこで演じられているはずのサロメの欲望という主題も、サロメ自身のものではなく、〈ファム・ファタル〉のイメージを作りあげた男性たちから与えられたものにすぎない。
私たちが見たいと思っているもの、見ていると信じているものを見ることは、実は困難なことなのかもしれない。それは作品の鑑賞においてのみでなく、日常を振り返っても同様ではないだろうか
3.揺らぐ私の輪郭-「山羊を抱く/貧しき文法」・「定点観測」
「山羊を抱く/貧しき文法」
かつて、英軍から日本軍へ、兵士の性処理のために山羊が提供されたことがある… …。
そのエピソードを知った百瀬は、山羊が男性に犯される場面を描いた絵画を模写し、その絵を山羊に食べてもらおうと試みる。冒頭から、室内で一心に絵を模写し続ける百瀬の姿と、モンゴルの平原で一頭の山羊と対峙する百瀬の姿が交互に映される。
山羊の供与のエピソードがインターネット上に流布している確証を持たない逸話の一つに過ぎないとしても、動物が人間からの性加害を受けた事例は数多ある。百瀬は山羊と自身との間に、男性の性加害の対象となってきた「身体」を持つという共通性を見出している。
筆で一本一本の線を引き、食紅で丹念に色を塗って獣姦の場面を模写する行為は、百瀬が自らの身体を使ってそこに描かれている性被害をなぞること。その絵を山羊が食べれば、やはり山羊の身体を通して被害者性を共有することができる。かつてあった性被害の歴史の一端を、身体行為によって共有しようと彼女は試みる。
しかし、留意すべきは山羊が人間とは違う種類の生物で、共通の言語を持たないため意思疎通が難しく、故に百瀬には山羊の意思が確認できないことだ。そのため本作で企図されている被害の共有の試みは、同時に、「山羊に絵を食べさせたい」という、百瀬の一方的な意図の強制としても働いてしまう。それは、人間が山羊に性暴力を行使した逸話と同じ構図を自らなぞり、必然的に彼女自身が加害者の立場に立つことでもある。
共有と加害。果たして山羊は百瀬の意図を受け入れようとせず、強い抵抗を見せ続ける。その抵抗と拒否は山羊と百瀬との間に固く張られたロープに象徴され、彼女はなかなかその距離を縮めて山羊に触れることができないまま時間が流れる。結果的に山羊は絵を食べることはなく、百瀬が絵の一部を丸めて口に入れ、咳き込む所で映像は終了する。
百瀬はインタビュー5)で本作を「失敗の記録」だと語っている。もし仮にそうであるとするならば、それは百瀬がその身体だけでなく、歴史をめぐる自身の感慨をも山羊と共有可能だと感じてしまったことによるのではないか。
百瀬が性暴力の被害に遭った女性や山羊に自身との共通性を見出した時に、彼女の輪郭は他者に向かって揺らぎ、モンゴルで山羊の明確な拒絶に遭って再び揺らいだ。本作はむしろ、その揺らぎとほころびの記録だと言えよう。
「定点観測」
2012年から行われている参加型プログラム「定点観測」。今回は全4回、各回15名の「参加者」および20名の「鑑賞者」を募集して開催された。
会場は、スクリーンの前に円形に並べられた15脚の椅子による参加者席と、ひな壇式の鑑賞者席に分かれている。参加者は合図の後、任意の椅子を選んで座り、選択式の質問と記述式の質問が並ぶ14問のアンケートに答える。アンケートは参加者それぞれに異なる内容になっている。
回答後、一旦会場の照明が全て落とされ、参加者のみにスポットライトが点灯する。参加者は順番に一周ずつ、アンケートの回答のみを読み上げるように指示を受ける。その後再度、録音されていた一連の読み上げ音声が再生され、会場の照明が点いてプログラムは終了する。
私は「参加者」として本プログラムを体験した。アンケート回答後の最初の読み上げの際には、自分の順番で回答を間違えずに読むことや、周回のリズムを崩さないことなど、参加者の一人として他の参加者と場を共有して作っていくことに自然と意識が向いていた。そのためか、他の参加者の声の大きさや早さに自分の発声も影響されていたように思う。
読み上げが進むうちに、最初はバラバラの単語の羅列だと感じられた参加者の回答に、少しずつ意味が繋がって物語性を持つ箇所や、意味はないまでもオノマトペの連続になっている箇所などがあることに気づく。終盤には、作者の言葉を代読させられていると思われる回答もある。
参加者がそれぞれ自らの意思で書いたもしくは選択した回答を、自分の体と声を使って読む。それは参加者自身の行為に他ならないはずだが、その言葉には作者の意図が介在し、回答は操作されている。結果として、言葉は参加者の手を離れ、作品の一部として回収されてしまう。また、前述のように、他の参加者の存在に自身の発声も影響される。本作において、参加者の発話は作者や他の参加者の存在の中に置かれ、完全には自力でコントロールすることができないものになっている。
しかし、日常の暮らしの中でも私たちの誰しもが、つい発してしまった言葉、周りの誰かにつられてしまった言葉、そして、言うべきでなかった言葉を口にしてしまった経験があるはずだ。自らの身体、音声を用いて発した言葉は、私固有のもののはずであり、またそう見做されるべきものだ。しかし「定点観測」で明らかにされたように、私たちの言葉は自身に確固として紐づきながらも他者との間で揺れている。
4.ほころびを抱えて
本プロジェクトの四作品はいずれも、「わたし」という存在の曖昧さ、不確かさを浮き彫りにするものだ。見ることの主体として、私たちがいかに不確かであるかを明らかにする「Social Dance」、「Jokanaan」、私たちの存在が他者との関わりの中で部分的には重なりあい、影響し合っていることを示す「山羊を抱く/貧しき文法」、「定点観測」。
私について語るとき、曖昧、不確かという言葉は、ネガティブなイメージを伴って用いられることが多い。そこには、社会的な存在としての私たちが、経済的にも精神的にも自立していることが望ましいとされていることも関係しているだろう。しかし、本プロジェクトの作品で見てきたように、現に「わたし」は、不確かさや曖昧さを抱えた存在だ。どこまでを「わたし」と捉えるかが難しいような曖昧さは、無意識に私と他者の輪郭を混同させている。
だが、この混同によって私たちは、何の所縁もない、会ったことがない人のことも、自分と地続きの存在として捉えることができる。被災した人々や戦禍の中にある人々、困難な生を生きる人々、そして、すでにここにいない歴史上の人々や事象にまで、思いを寄せることができる。「山羊を抱く/貧しき文法」において百瀬が、山羊やかつて戦時性被害にあった女性たちの存在に思いを寄せたように。
こう考えるとき、タイトルの「ほころび」という語は重要だ。曖昧で、自身だけで確立されておらず、ほころんでいる「わたし」であることは、そのほころびを介して他者との間に影響を与えたり受け取ったりする相互的な関係を持ちうるということでもある。
本プロジェクトは「わたし」という存在の不安定さを浮き彫りにするだけではなく、同時に「わたしのほころび」が他者への回路を開く可能性をも示唆している。それは展示作品に示されるように、一方的な思い込みや、一時的で偶発的なものに過ぎないかもしれない。しかし、そこには微かに、ほころびが共感や連帯を生み出していくことへの希望も垣間見える。ほころびを抱えているからこそ、私たちは他者と共にあることができるのだ。
1) 女性が鑑賞者に語りかけていることは、文体や、字幕に( )付きで表記される独白の言葉では女性の手が動いていないことに見て取れる。
冨永絵美(ライター)