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木ノ下歌舞伎『桜姫東文章』 批評文 vol.1

久留米シティプラザでは、より開かれた劇場を目指し、久留米シティプラザが主催した自主事業公演の記憶を広く永く共有していくために、舞台写真とともに批評文を公開いたします。
 
2023年3月4日、5日に久留米シティプラザ 久留米座にて上演した、木ノ下歌舞伎『桜姫東文章』について、福岡女学院大学 人文学部准教授の須川渡さん、九州大学人間環境学研究院 特任助教の宮本聡さん、手話劇団「福岡ろう劇団博多」団長の鈴木玲雄さんに批評文をご執筆いただきました。このページでは、須川渡さんの批評文をご紹介いたします。
 
 
未来からの検証
文:須川 渡
 
 

木ノ下歌舞伎を主宰する木ノ下裕一と今回演出・脚色を手がけた岡田利規の対談によれば、鶴屋南北の『桜姫東文章』を選んだのは、2020年のことだという1)。期せずして、2022年の4月から6月にかけて片岡仁左衛門と坂東玉三郎による久々の上演があり、シネマ歌舞伎としても上映された。翻案作品も木ノ下歌舞伎にとどまらず、同年にはルーマニアの演出家シルヴィウ・プルカレーテによる『スカーレット・プリンセス』が東京芸術劇場で上演されている。白菊丸から桜姫へ転生するかと思えば、ドロドロとした愛憎劇が繰り広げられ、亡くなった清玄もゾンビ映画のように蘇生する…「隅田川」と「清玄桜姫」の世界をないまぜにした荒唐無稽な筋立ては、現在からみれば、ライトノベルのようでもB級映画のようでもあり、私たちが普段接しているサブカルチャーの世界とも親近性を持つ物語であることに気づかされる。

古典芸能の現代化、特に歌舞伎のアダプテーションは昨今さまざまな形で展開されている。シェイクスピアなどの西洋演劇を摂取することもあれば、アニメやゲームを歌舞伎化した作品も注目を集めている。ジャニーズのアイドルや初音ミクとの共演など、例を挙げれば枚挙にいとまがない。木ノ下歌舞伎の「現代における歌舞伎演目上演の可能性を発信する2)」というアプローチもまた数ある現代化の試みのうちの一つと捉えられる。しかしながら、今回の岡田利規演出による『桜姫東文章』は、歌舞伎の構造を換骨奪胎したうえで、現代の観客とともに歌舞伎の在り様そのものを検証したという意味でたいへん興味深い上演だった。

 

東京公演(2023年2月 あうるすぽっと)舞台写真 撮影:前澤秀登
 

朽ちかけたプロセニアムの舞台にむき出しの照明。廃墟となったプールにDJブースが設置され、始終レゲエ調の曲が流れている(サウンドデザイン:荒木優光)。俳優たちは基本的に舞台上に登場したままで、『桜姫東文章』は劇中劇として上演される。出演しないときも周囲からその場面を見物し、大向こうから「ダルメシアン」「ポメラニアン」といった適当な掛け声をかけられる。歌舞伎の筋立を、その場に居合わせた俳優たちが戯れに楽しんでいるかのようだ。

興味深いのは、この物語を現代に照らして検証する態度を取っていたことだ。各場で起こりうる物語は先に字幕で投影されるため、観客はすでにその場で何が起こるかを少し早く知ることになる。たとえば冒頭、「清玄と白菊、心中を図る。白菊だけ、淵に飛び込む」と字幕が投影される。観客の意識は、白菊丸(石橋静香)が飛び込むことになった顛末に向けられる。これは、いかにもブレヒトの叙事的演劇に倣ったものであり、観客はその場で起こる出来事を客観的に観察する態度を求められる。

このような字幕の効果にくわえ、現代の言葉に翻案されると登場人物それぞれの過小さがさらに際立つ。清玄(成河)と白菊丸が心中する身投げの場面は、本来ならば唄浄瑠璃をはさみながら情緒的に語られる趣向を持つが、岡田翻案による白菊丸と清玄の対話においては、歯に浮く台詞を言いながらも、身投げすることのできなかった清玄のダメ男っぷりが際立っていた(「命は惜しくないけど、高さが高すぎる」)。全編を通して、登場人物は薄っぺらに映る。たとえば、敵役として登場する入間悪五郎(足立智充)はたびたび効果音とともに登場するが、平面的でどこかテレビゲームの敵キャラのようなチープさを漂わせているし、つま先を立ててぐっと背を伸ばしながら話す粟津七郎(森田真知)は、小柄な体形を隠して無理に虚勢を張っているようにも見える。岡田演出はどこまでも登場人物たちの身の蓋のなさを暴いていく。

 

東京公演(2023年2月 あうるすぽっと)舞台写真 撮影:前澤秀登
 

桜姫を取り巻く障がいの取り上げられ方はさらに際どく映る。そもそもの歌舞伎においても、桜姫は生まれた時から左手が開かず、「片手開かぬ方端3)」が理由で縁談を断られていた。「引け物」扱いされていた姫は、岡田の翻案では「B品」と言われ「最初から五体満足」なら入間悪五郎の元にはいかなかったと姫の局である長浦はいう。私たちの身近な言葉に置き換えられることで、彼らの無意識の悪意があぶり出される。

木ノ下が上演パンフレットで述べている通り、今回の作品は、歌舞伎演目におけるネガティブな側面、「当時の時代背景に根差した差別やジェンダー観、家父長制や障がい者の描かれ方」に向かい合うものとなっていた。特にジェンダーに関しては、一定の方向づけがなされている。岡田が手掛けるチェルフィッチュ初期の作品にも顕著だが、今回の登場人物は感情を露にせず、基本的には抑揚のない棒読みで台詞を話す。むしろそのことで、桜姫のおかれた境遇そのものに意識がむけられる。もっとも印象的だったのが、終幕において桜姫が清玄の死霊に「ねちねちつきまとってくる」と啖呵を切る場面だ。現行の歌舞伎においては、鶴屋南北の『四谷怪談』などにも通じる幽霊の怖さが際立った場面であるが、岡田演出における清玄の幽霊はチープな空気人形で表される。恐怖が捨象されたことで、男性に対する桜姫の抵抗がより強調される趣向となっているように感じられた。桜姫だけでなく、今回改めて上演された第三幕の「押上植木屋」において理不尽に殺害される小雛(板橋優里)や、桜姫の身代わりに女郎屋に売られ、権助に育児を押し付けられるお十(安部萌)など、家父長的なお家騒動の裏で理不尽な扱いを受ける女性の描写が特に強調されていた。

自らの子に手をかける桜姫は、ギリシア悲劇の『メデイア』にも通じるところがある。今回の岡田演出では家宝の都鳥を手に入れた後、お十が家宝を放り投げて、唐突に幕を下ろす。本来の歌舞伎に存在するかたき討ちと大団円の場面は省略し、オープンエンドとして提示することで、観客に解釈を委ねる結末となっている。「ハレルヤ」という幕切れの掛け声は、『メデイア』のような強い「復讐」とも異なる、女性たちの軽やかな抵抗と連帯とも受け取れた。

廃墟のようなプロセニアムの劇場で行われるという設定は歌舞伎のこれからを考える上でも象徴的だ。それはこの先の歌舞伎の行く末を未来から検証した風景だったのかもしれない。「古典」を現代において上演する試みは今後も続けられていくだろう。しかし、その営み自体がいずれ古びた近代の産物となることもまた指し示した上演であるように感じられた。

 
<参考文献>
1)『桜姫』の読み解けない面白さ|対談:木ノ下裕一 × 岡田利規
https://rohmtheatrekyoto.jp/archives/report_sakurahime2021talk_02/
2) 木ノ下歌舞伎
https://kinoshita-kabuki.org/aboutus
3) 廣末保編著『桜姫東文章 歌舞伎・オンステージ5』(白水社、1990)による
 
 

須川 渡(福岡女学院大学人文学部准教授、博士(文学))

専門は演劇学。東北地方の農村を中心とした戦後日本の地域演劇について調査を行なっている。近年は地域演劇だけでなく、パフォーマンスの分析やオンライン演劇の実践など、多岐にわたる研究を行う。著書に『戦後日本のコミュニティ・シアター特別でない「私たち」の演劇』(春風社)、共著に『漂流の演劇 維新派のパースペクティブ』(大阪大学出版会)など。
 
 

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2023年08月02日