市原佐都子/Q『妖精の問題 デラックス』 批評文 vol.2
文:柴山 麻妃
「見る」という行為について考えた。
(多くの人にとって)呼吸と同じように無意識で、網膜に写ったそれは誰にとっても同じだと思いがちだ。だが同じものでも見え方は違うし、見ようとしないものは最初から見えない。そして「見る」行為は、人を委縮させたり、人の尊厳を傷つけたり(もちろん逆もある)、つまり他者をコントロールし得るものだ。
では、「見る」ことを前提に作られている演劇はどうだろう?
このことを常に意識しながら、『妖精の問題 デラックス』は論じなければならない。本作ほど「見る」ことに自覚的な作品はないからだ。
さて、本作で興味深かったのは、3つの次元から成る入れ子構造だ。1つは、テキストの次元。劇中のセリフや内容である。その過激さゆえに、この次元だけで十分に語ることができる(語りたくなる)。2つ目は、オムニバスの3つの話を一つの作品としてとらえた時に、見えてくる次元だ。テキストの断片に一貫性はないが、てんでバラバラに見えるそれらを通して語れることがある。そしてそれら2つの次元を考えた先に、3つ目の次元がある。「見る」という行為は何なのか、私たちが本作を「見ている」という事実について考えさせるものだ。それぞれを見ていこう。
●1つ目の次元:過激なテキスト
本作は「ブス」「ゴキブリ」「マングルト」というオムニバス3作から構成されている。1部の「ブス」は全編を通して女子高生漫才師「ハイジニーナ」による漫才だ。セーラー服の上下を逆にした衣裳で現れた二人は「ブス」を売り物にして自虐的な会話を展開する。ルッキズム満載だ(しかしお笑いでは珍しいことではない)。そこに登場する『不自然撲滅党』の選挙演説と、客席内を走る選挙カー。議員はAI的な美女の面をかぶり、「平均的な容姿=美、したがって美男美女は平均、保護すべきだ」「それ以外の不自然を排除せよ」と演説する。さらには「一人で食べることができなくなった老人も、人間として不自然な存在、死んでもらおう」とまで言う。これを受けて「ブス」の漫才師はいっそのこと老人を殺す仕事をすればいいのだと言い始める。
とんでもない優生思想(しかも漫才として面白くない)で観客はただ冷笑するしかない。それは漫才(演劇)の中のセリフにすぎないからと是非の留保でもある。しかし不自然撲滅党の演説の方は、現実にネットで見かける主張であり、そして勝るとも劣らない主張をしている政党が現実にあり、―――折しも参院選の真っただ中だっただけに―――ゾッとする。フィクションとして留保できない現実があるのだ。
だから、漫才中のコントでバクが叫ぶ「交尾したい!」という声が、「ブス? 生きる価値がない? 馬鹿にするな、生きてやる!」そんな声にも変換もできる。そういえばあのAI(平均)美人面って、美容整形の「創られた顔」の看板によく似ている。 均 したものは、「個」が消え「生」も消えるのだろう。
第二部「ゴキブリ」は、妊娠した妻とうだつの上がらない夫による、ゴキブリをめぐる話。ゴキブリを始末するためのホウ酸団子を作るところから始まり、5つもの殺虫剤を炊いて煙だらけの中で、逃げ惑うゴキブリの姿に原爆投下後の人間の姿を見る…ということをマイクを持った二人が歌い上げる。腹の中の我が子が「異常」となったのが殺虫剤の煙のせいだと言うわけだが、ゴキブリの異常な生命力と人間の生命力(あるいは死にゆくあっけなさ)を重ねている。
エキセントリックではあるが部分的に同調しやすい。まだ生まれていない我が子を「異常の子」というのは妊婦の不安だと受け取ることも可能だし、ゴキブリの姿を人間に重ねるのも納得できる。人知の及ばない何かを前にしたら死ぬしかない小さな存在、しかしそれでも生き延びるしたたかな生命力が両者にはあるからだ。いや、皮肉を込めて、殺虫剤も原爆も人間が作った「害」であり、それによって苦しんでいる点で同じだということかもしれない。ここでも私たちは(ゴキブリ同様)匿名の集団であり「個」のない存在として描かれている。
第三部の「マングルト」は、「女性器に牛乳を入れて作る健康食品・マングルト」の普及セミナーの体で、観客は受講者となる。体験談のお便り紹介、創始者の語りビデオ、作り方ビデオ、ズームによる体験者同士の交流などを見せられるのだが、セミナーの和やかな雰囲気と強烈な内容とのギャップに戸惑う。体内の常在菌と外部の菌を融合させる説明や「自産自消」という言葉はもっともらしいけれど―――人間は菌と共存してきたし、真っ当な「地産地消」の理念と一続きのものかもしれないから―――過激で笑うしかない。だが待てよ、これのどこが過激なのか。想像を超えた健康法と言うなら、飲尿療法など他にもある。性の冒涜だと言うなら、もっと巷にあふれている。女性器を連呼するのが「はしたない」なら、なぜ男性器の連呼は「小学生男子みたい」ですむのか。
過激だと感じるのは、慣れないもの・「常識」外のものに出会ったということなのだろう。だからそのたびに私たち観客は思考停止してしまい、笑いでごまかしたり、拒絶したりしてしまう。だがそれは、それまでの「見方」「とらえ方」を揺さぶられている証拠だと言えるだろう。
第1部「ブス」
●2つ目の次元:3部作を通して
ところで、本作は劇場そのものが演芸場の 設 えになっている。客席を半分囲むようにして下手側にはバンド、上手側にはアパートの一室、正面には富士山がうすく描かれた白い屏風。頭上にはミラーボールと赤い小型提灯が並ぶ。そして漫才の「ブス」が始まるわけだが、第2部「ゴキブリ」は生バンドが演奏し(ご丁寧にゴキブリ色の衣装を身に着けて)、役者二人は右に左に動いて歌を披露する。第3部「マングルト」でも受講者(観客)は白屏風に映し出された映像を見てセミナーに参加する。つまり3部どれをとっても「見る」という装置が作り出されているわけだ。
そのことによって、例えば1部でどんなセリフが登場しようと「漫才あるあるだ」と思い、2部でエキセントリックな言葉に理解がついていかなくても音楽で受け入れてしまい(キキ花香の圧倒的な歌唱力が理由の一つだ)、3部では気づくとセミナー受講者としてマングルトについて学んでしまっている。
だがこれらの「積極的に見る」しかけの中にいることに気がついた時、例えば「ブス」だと言いあう二人の容姿を判定して見ている自分に気づくとか、政見放送の「もっともらしさ」の罠とか、ゴキブリに同情さえさせる音楽の力について考えるとか、うさん臭く見えるのはセミナー形式のせいなのか内容のせいなのか自分の固定観念のせいなのかに疑問を持つとか、そんな何かしらに引っ掛かりが生まれる。観客を振り回すセリフの数々も、自分の価値観を揺さぶるしかけ。「見る」という行為に自覚的になること、「あたりまえ」を疑うこと、それが本作の本意だろう。
第3部「マングルト」
●3つ目の次元:演劇としての本作
演劇にはそもそも、見ることを通しておのれを客観視させる力があると私は考えている。それは、冒頭に書いたような「見る/見られる」という関係の中で生まれる一方的な暴力が、演劇においては少し異なるからである。
演劇(パフォーマンス)には肉体がリアルにそこに在る。「見る/見られる」関係がリアルにそこに在る。そして「見られる側(=演者)が積極的に発信している何か」を観客は見る。ここで言う「見られる側の発信」とは、セリフや主張に限らず、肉体や空間、音や光など、リアルから生まれる説得力だ。見ることで、いろんな感情がさざめき、気づかされ、考えさせられ、おのれの客観化につながる。私にはそれが演劇の魅力の一つだと感じているし、『妖精の問題 デラックス』の魅力もそこにあると思っていた、ところに―――以下のような感想を教えてもらった(転載了承済み)。
芸術という大義名分さえあればセクハラに当たる表現も許されるのか。
私は不快だったし、それは有意義な不快(モヤモヤ・問題提起)とは違うベクトルの嫌悪感だった。
表現者の倫理としてどこまで許されるのかはしっかり考えるべきだと思う。
「見られる」側の発信が、「見る」側に対する暴力的な働きかけになった、言い換えると視線の力関係が逆転したことの訴えである。確かに、芸術にはあえて人々の気持ちを刺激、もっと言えば逆なでする表現を取る場合がある。けれどそこに必然性があるのなら、公の平穏をかき乱しても意味がある。その必然性の判断が難しくて表現の自由と規制の問題に発展するのだが、ここで論じる力は私にはない。また特に性や死や暴力の表現は、それぞれのトラウマや体験、年齢、想像力、環境などによって受け止められ方が異なるため、一概に表現の妥当性の判断もできない。
しかし、おそらくこの感想をも、作・演出の市原佐都子は歓迎したのではないかと考える。なぜなら、本作の意図がまさにその「引っ掛かり(嫌悪も不快も含めて)」をもとに考え、人と話すことにあるからだ。私たちが、異なる意見を持つ者、受け入れられない表現と対峙するとき(言ってみれば民主主義を成り立たせるときであり、倫理や平穏を維持しようとするとき)に必要なのは、対話だ。他者を知り、他者から得るのが、対話だからだ。あの感想を持った 件 の人は、この作品について誰かと対話をしただろうか、何を話しただろうか。
実は本公演は若者の社会的関心をはぐくむプログラム「新しい演劇鑑賞教室」の一環だったと聞く。いくつか用意されたプログラムの中で鑑賞後に劇作家や参加者と対話をする時間があったそうだ。私も参加して、この感想の人と話してみたかった。どこがセクハラだと思った? 有意義な不快感とそうでない不快感ってどう違うのだろう? そして芸術を特別視せずに倫理と表現の自由を成り立たせることについて、一緒に考えてみたかった。仮に、プログラム中にこのことについて話せなかったにせよ、この「引っ掛かり」を持っている限り、きっとこの人は今後の芸術体験において思い出し、考えて、自分と対話するに違いない。それこそが演劇の力であり、見えない妖精との対話なのだと、私は思う。
柴山 麻妃(演劇評論家)