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百瀬 文「わたしのほころび」 批評文 vol.2

久留米シティプラザでは、より開かれた劇場を目指し、久留米シティプラザが主催した自主事業公演の記憶を広く永く共有していくために、舞台写真とともに批評文を公開いたします。
 
2023年12月15日(金) 〜 2023年12月17日(日)に久留米シティプラザ スタジオ、Cボックスにて開催した百瀬文『わたしのほころび』について、福岡市在住のライター冨永絵美さん、福岡市美術館学芸員の忠あゆみさん、お二方に批評文をご執筆いただきました。このページでは、忠あゆみさんの批評文をご紹介いたします。
 
 
 
「すべて予測したとおりだったでしょうか?」
   文:忠あゆみ
 

1.かなりの緊張感を持ちながら、開演を待っていた

12月17日14時、久留米シティプラザ内のホール、Cボックスで、筆者は百瀬文の参加型パフォーマンス作品「定点観測」の参加者として、舞台上に配置された15脚の椅子の一つに座った。「定点観測」は、パフォーマンス、映像の形式で2012年以来断続的に行われているもので、百瀬からのアンケートへの回答を軸に構成される。 今回の「定点観測」は全4回の上演で、各回「参加者」「鑑賞者」の2つの参加枠がある。「参加者」の席は舞台上に15席、「鑑賞者」の席は20席用意されている。「参加者」は環状に配置された椅子に座り、「鑑賞者」は椅子に座った15名を客席から眺める構図になっている。入場時に、参加者はアンケートへの回答を音読する、と聞いており、首からかける録音機材が手渡された。 参加者の席に座っていることに、少しばかり照れていた。筆者は、かなり緊張する方で、演劇作品で舞台に立って喋った経験は皆無である。小学生の頃、習っていたバレエの発表会で、頭が真っ白になって、舞台から逃げてしまったことがある、と言えば、「緊張しい」の度合いが分かっていただけるだろう。したがって、参加者としてこれから何らかの声を発することに、かなりの緊張感を持ちながら、開演を待っていた。百瀬は、客席側、機材の置かれた中央後方の座席付近から舞台上に座るこちら側を見ていた。

パフォーマンスの手順と筆者の役割

公演が始まると、パフォーマンスの参加者15名はまず、舞台上に一定の間隔をあけてドーナツ形(直径7m程度だろうか)に配置された椅子に座る。そして椅子の上に置かれた14個の設問が書かれたアンケートに答えを記入する。記入が終わると、1個目の答えを、時計の6時の位置の席(つまり、客席側から見て最も手前の席)に座った参加者が声に出して回答する。次に、左隣の席の参加者が回答する。そのさらに左隣の席の参加者も…という具合に15名全員が1番の答えを回答し終えると、最初の人が、今度は2番目の答えを回答する。つまり、時計回りに、1番から14番までの質問を1回ずつ声に出して回答していく。この回答は録音され、録音後もう一度再生される。つまり、「参加者」は、アンケートの回答によって、百瀬作品におけるストーリーテラーとして声を発する役割を課せられており、「観測」の対象となっている。この手順は、椅子に座ったあと、アナウンスによってこれから行うことの手順が告げられた。

2022年-2023年に十和田市現代美術館で開催された百瀬文の個展「口を寄せる」に際して制作された作品集「口を寄せる」において、美学研究者の伊藤亜紗は、百瀬の作品が「登場する俳優たちの声を、しばしば彼/彼女自身でないもののために奉仕させている。」と指摘し、「声を貸すと言う侵襲的な経験をしたことの影響は、貸しているあいだだけでなく、貸した後も、その人の人格や人間関係に持続的かつ不可逆な影響を及ぼすはずだ」と述べ、身体を捕獲すること、されることの意味について検証している。そして、註釈のなかで、「百瀬の作品に参加した俳優たちに実際にインタビューを行うことができれば、倫理的かつ実践的なレベルで、より豊かな答えが出せたかもしれない」と述べている 。1)
今回の公演もまた15名の参加者が、自らの声を百瀬作品の一部として提供することによって成り立つ作品であり、上記の特徴に当てはまるものだ。筆者に、今回のレビュアーとして語るべきことがあるとすれば、百瀬の作品に60分間拘束され、「侵襲的な経験をした」=観測された者の経験を報告することではないかと思った。以下に、その経験についての覚書を残す。

観測された者の覚書

【パフォーマンス開始前に感じたこと】

・声を発することを前提に舞台に立っているということが、とても 面はゆい。卒業式のスピーチで出番を割り振られているような責任感、緊張感を感じる。武者震いに襲われる。

【アナウンスが始まったときに思ったこと】

・アナウンスの声は、とても機械的な、人工的な声である。行動について 指示するその声は、シャトルランの事前アナウンスに似ている。シャトルランは、小中学生の時に課せられた体力測定の種目だ。体育館の端から端まで、20mをドレミファソラシドに合わせて往復する。そのスピードはどんどん早くなっていく。息が切れた者から、足をとめ、どちらかの端に座って体育座りをし、生き残った生徒を見学する側に回る。小学生時代の私にとってシャトルランは苦行で、淡々と説明するアナウンスが一層、いやな気分に拍車をかけた。これから人体実験をされるような、うんざりするような気分も襲ってきた。

【アンケートに記入したときに考えたこと】

・アンケートの質問には、選択肢にマルを付けるものと、自分で答 えを記入するものがある。ヒマワリの新しい花言葉を考えさせるなど、穏当な内容がほとんどのなかに、日本の社会情勢に評価を下す文言もある。そうしたものへの答えを書くのは少し気を張る。この時間はとても静かで、定期試験を思い出した。
・全員の記入が終わるまでは次のアナウンスが流れない。早めに回答が終わり、周囲を見渡し、待機していると、1人、2人と書き終わった人が増えていくのがなんとなく分かる。
・待機時間が妙に長い。ただ待っているならいいのだが、ここは舞台上であり、観客に見られている。弛緩した姿勢ではいられず、姿勢をぴんと正してみたり回答を見返してみたりする。見返しているふりをして、格好をつけている。不意に、自分の顔がカメラにアップで撮られている錯覚に陥る。

【読み上げながら考えたこと(1周目)】

・読み上げる時、「いい声」で発声したほうがいいのか、それともいつも通り声を発せばいいのかというためらいが生じる。私はよく通る声ではないし、どの調子で声を出したらいいだろう、などと迷いながら、一定の音量が出るように発声する。
・自己開示を迫るような質問がところどころにあり、そのような答えを読むのは、恥ずかしいので、必要以上に己が出ないよう意識していた。
・参加者の人たちの声と、話している内容に思わず聞き惚れる。質問は想像することしかできないが、それぞれのバックボーンを持ってここに集まってきていることがわかる。話すときには自分を晒したくないが、聞くときには発話者の言葉と声色に耳をそば立ててしまった。

【読み上げながら考えたこと(2周目以降)】

・次第に自分の書いた答えが、前後の人と繋がり、まとまりを持ち、一つの語りを形成していく。初めは「止まった」「時計の針」のように偶然をよそおって、次第にあからさまにひとつの語りになっていく。オノマトペの連続によって確信に変わる。オノマトペをきっかけに、参加者全員の実感に変わっていった。前の人の声を聞く、自分が発言する、次の人が発言する、の間合いが、だんだんと滑らかになっていく。この間、その場に居合わせた人と繋がり合えたような感覚が現れた。
・何周目かに、この語りを作り上げた存在である百瀬の存在があらわになる部分が現れる。百瀬によってコントロールされた文章であることが明かされる。「はじめまして」と、そこにいないはずの百瀬のメッセージを語り、また同時に聞いている

【定点観測終了のアナウンスを受けて】

・定点観測が終了した、という言葉の使い方に、先ほどまでの一体感がスッと冷めていく。公演は全部で4回あり、このようなやりとりが4回繰り返されたことになる。そのつど、百瀬はこのやりとりを目にしている。そのとき、似たような文章が別の15名で発せられたのだろうか。それぞれの参加者も、私のような一体感を得ただろうか。その時、今、百瀬は、何を感じているのだろうか。

薄気味悪さ、心地よさ

以上が一参加者としての「定点観測」の体験である。用意された環境といくつかの行動制限に、個人的な記憶を刺激されながらも1周、2周と繰り返される参加者同士の言葉のリレーに、次第に参加者との間の一体感を味わっていた。記入した言葉が、いつのまにか百瀬による語りの一部に組み込まれて、発生する声を操られている。この特殊な状況において、心地悪さ・心地良さは切り離せないものになっており、公演の間はその感覚から逃げることは出来なかった。 自由意志に基づいた行動が叶わずコントロールされていることの薄気味悪さ、我を失い、一体感を味わうことの心地よさとがないまぜになった状態。今回の「定点観測」の構造が引き起こしているこの状態は、同時上映された百瀬の映像作品、「Jokanaan」「山羊を抱く/貧しき文法」「Social Dance」にも表れている。これらの作品には、コミュニケーションの場に支配/被支配の関係が生まれる場面が出てくる。「Social Dance」では、手話で対話する男女間で、片方が片方の手を掴むことで、会話を遮る場面がある。一方的にコミュニケーションを遮ることの暴力性を思わせる一方で、手を触れ合うという行為によってまた別のコミュニケーションが展開していることを思わせる場面だ。このように、暴力・支配などの非対称の関係を扱いながら、図式で縛り切れない感情があることを百瀬は取り出して見せ、見るものに決まりの悪い思いを味わわせる。 今回の公演で抱いた感情として筆者が最も特別に感じたのは、声を発する際の一体感だった。衆人監視のなか声を発して質問に回答するという場面において、アンケートに記入した言葉、参加者たちの声と身体は、無防備で、確かに自分たちのものだったはずなのに、あの語りの時間では、百瀬の語りをなすスピーカーの構成物として、淀みなくつながり合っていた。この時の空気を形容するなら「のってきた」というところだろうか。このつながり合い、のってきた感じは、「Jokanaan」の一場面における「私たちきっと愛しあえたんだわ」というサロメのセリフとオーバーラップする。人と分かり合えること、一体になれるという幻想が、たしかに、一瞬だけその場を包み込んでいた。

ドーナツ、もしくはグラス

この体験を生み出すうえで、15脚の椅子がドーナツ型に配置されていることは重要だろう。ある程度の距離を開けて、中央にむかって配置された椅子は、互いが互いを監視するのに適している。15名の参加者は互いの発声の仕方に耳を傾け、仕草に目を配る。そして、「観測」の時間の中で、次第に一つの声を放つための装置へと、変化していったのだ。 ドーナツ型の椅子の配置が、グラスを上からのぞいた形と同じであることは、とても象徴的なことのように思われる。なぜなら、百瀬は、以前とあるインタビューにおいて自分の作品を、「水に入ったグラス」に例えているからだ 。2)
「私が本当に見たいのは、このグラスから溢れ出てこぼれてきてしまう予測不可能なしずくの部分なんだろうなと思う。でも逆に言えば、そのしずくを観測するためにはグラスという強い構造が必要になってくるわけです。」と述べている。薄気味悪さも心地よさも、この構造からあふれるしずくとしてとらえることができるだろう。 それにしても不可解なのは、百瀬は、「定点観測」で参加者が放つ言葉のなかに、「すべては私の予測したとおりです」というセリフを紛れ込ませていることだ。筆者が体験したことは、予測不可能なしずくであったのか。それともすべては…その答えを知るのは少し怖い。人体実験をされた後のような、うんざりするような気分が襲ってきた。

 
<注>
1) 伊藤亜紗「身体の捕獲」『百瀬文 口を寄せる』美術出版社、2023年
2) 百瀬文インタビュー「本当に見たいのは、グラスから溢れ出てこぼれてきてしまう予測不可能なしずくの部分」(公開日:2022年7月20日、アクセス日:2024年2月21日) https://www.tokyoartbeat.com/articles/-/aya_momose_interview

忠あゆみ(福岡市美術館学芸員)

1990年生まれ。埼玉県出身。専門は日本近現代美術。鹿沼市立川上澄生美術館、アーツ前橋勤務を経て2018年から福岡市美術館に勤務し、コレクションを中心に近現代美術の調査・研究を行なっている。担当した主な展覧会は「オチ・オサム展」(2024年)「ソシエテ・イルフは前進する」(2021)、「和田三造《博多繁昌の図》ができるまで」(2021)、「藤森静雄と『月映』の作家」(2019)
 

 

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2024年03月13日