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『ライカムで待っとく』批評文

久留米シティプラザでは、より開かれた劇場を目指し、久留米シティプラザが主催した自主事業公演の記憶を広く永く共有していくために、舞台写真とともに批評文を公開いたします。
 

2024年6月15日(土) に久留米シティプラザ 久留米座にて上演した『ライカムで待っとく』について、西日本新聞記者の塚﨑謙太郎さんに批評文をご執筆いただきましたのでご紹介いたします。
 
 
ひっかき傷を負わされて」
   文:塚﨑謙太郎
 

 「観客が劇場を出た後に、いつもの風景がちょっと違って見えるような作品になっていればうれしいです」。劇作家や映画監督が、こんな風にインタビュ-に答えることがある。 「心にひっかき傷を残したい」。そんな言葉を使う事も。観る人の価値観を揺らしたい、固定観念や諦念、無関心をぐらつかせたい。それは創作者にとって、当たり前の欲望だろう。
  「ライカムで待っとく」(作・兼島拓也、演出・田中麻衣子)を観たのは6月15日。50日ほどが過ぎた今、本稿を書いている。今もあの舞台から放たれた言葉が、私の胸の深いところに刺さったままだ。二度と抜けない棘のようにも感じられるが、その棘を意識しながら生きていけるならばそれがいいとさえ思う。なかなかのひっかき傷を負わされた。
 寄り添うとは何か?当事者とは誰か? いくつもの問いが刺さったままだ。

【あらすじ】

 雑誌記者の浅野は、60年前の沖縄で起きた米兵殺傷事件について調べることになったのだが、実はその容疑者が自分の妻の祖父・佐久本だったことを知る。調査を進めながら記事を書くうち、浅野は次第に沖縄の過去と現在が渾然となった不可解な状況下に誘われ、「沖縄の物語」が育んできた「決まり」の中に自分自身も飲み込まれていく…。
久留米シティプラザHPより

 この文章を書いている私は新聞記者である。誰かに会って、話を聞き、記事を書くことをなりわいとしてきた。舞台の幕が開いて間もなく、座っている尻がむずがゆくなるような居心地の悪さを感じる場面があった。雑誌記者の浅野に、沖縄取材を命じる先輩は言う。
 「沖縄の人たちに寄り添った記事になると思わないか?逆境を生き抜いたたくましい沖縄の人の生活に思いをはせる記事になるんだよ」。
 記者(取材者)への批判として、たまに聞く言葉がある。あらかじめ頭の中で描いたストーリーにあてはめようとしている、との指摘だ。事前に資料を調べ、テーマを明確にして、アポイントを入れて、現地を、その人を訪ねる。そのルーティンの先で物語をあらかじめ描くことは、ある。特に「逆境をはねのける」ストーリーは、読者視聴者の心を揺らす(いわゆるエモい)物語として、成立させやすい形ではある。だが、記者という仕事の面白さ、醍醐味は、そんな想定が現場で覆される体験にこそあるのだが、記者論、取材論はいったん置いて、芝居の話に戻る。
 「寄り添う」という言葉はその後の場面でも、ストーリーを、登場人物たちの立ち位置を反転させるほどの強度で扱われる。

KAAT『ライカムで待っとく』24年度公演_撮影:引地信彦
 

 
 沖縄で取材を始めた浅野は言う。 「沖縄の人の苦しみに寄り添いたい、多くの人に読んでもらって、内地と沖縄の間に引かれた境界線を壊したい」。
 タクシー運転手は静かに応じる。
 「境界線なんかじゃなくて、水平線みたいなものさ。歩いても歩いても、泳いでも泳いでも近づかなくて、いつまでたっても越えられない」   

 終盤、娘がいなくなり、あわてふためく浅野に運転手は告げる。 「あなたが悲しいうちは、悲しそうに見えるうちは、寄り添いますよ?あなた方もいつもそうしてきたでしょう?これからもそうするつもりでしょ?」  
 あいかわらず尻にむずがゆさを感じながらも、運転手を演じる俳優のことがずっと気になっていた。いつか彼を見た作品は何だったか。今と似たような気持ちにさせられた記憶がある。「これからもそうするつもりでしょ?」のせりふで、ようやく思い出した。  

 吉田修一原作、李相日監督の映画「怒り」(2016)だ。「怒り」は、戦後の沖縄で幾度も繰り返されてきた、理不尽で許しがたい蛮行への怒りも描いている。沖縄に引っ越してきた女子高生の泉はある夜、米兵の性暴力に遭う。地元で育った同級生の辰哉は、近くにいながらも、彼女を救えなかったことを悔やむ。年上の知人に、自分のことではなく、友達の従兄の友達の妹がそういう目に遭ったのだと噓をつき、やり場のない怒りを吐き出す場面がある。  
「警察に頼っても国に頼っても結局誰も助けてくれないだろ」
「そんな目に遭ったのに負けが決まっているからって泣き寝入りなんかさせたくない」
「だってさ、同じような事件がこれまでにも何度もあって、それでも何も解決しなくて……、もう解決なんかしないんじゃないかって、みんな心のどっかで思ってて、でもやっぱり解決させなきゃいけなくて……。何度も勇気出してみんなで立ち上がってるのに、見てくれるのは最初だけで、いつの間にか誰も見てなくて。簡単に立ち上がれるなんて思ったら大間違いで、みんなほんとに勇気振り絞って立ち上がってるのに。……結局、誰も助けてくれない」                     吉田修一「怒り」より

 映画で辰也を演じていたのが、舞台でタクシー運転手役の佐久本宝だった。 辰也は声を震わせながら理不尽への怒りを吐き出す。ライカムの舞台にいる佐久本=タクシー運転手は、諦めを抱えながら沖縄で年を重ねた辰也の姿にも思えた。

KAAT『ライカムで待っとく』24年度公演_撮影:引地信彦

 

どれだけ被害にあっても、犠牲者が出ても、繰り返される蛮行。誰かにとっての大切な人がいなくなり、傷つけられてきた歴史。平和であるための犠牲。

「沖縄は日本のバックヤードだからね」
「バックヤードで起きたことは表からは見えない」
「この島で起こってることは内地から見えない」

 見えなかった時代もあっただろう。見せずに隠されていたこともあった。だが現在はどうなのか。見えているのに見えていないふりをして、たしかに見たのにいつの間にか見なくなって、見たいものだけを見る。戦後80年近く、沖縄に対して、内地はそんな風に振る舞ってきた。バックヤードを仕切るビニールカーテンはずっとぶら下がったままだ。

 上演が始まってずっと、舞台の黒っぽい背景は何だろうかと考えていた。南の海を我が物顔で泳ぐでかいクジラのように見えた。米兵に追い立てられて、断崖から海へ身を投げた多くの住民らの最後の波飛沫にも見えた。ガマの中に追い詰められ、火炎放射されて黒く焼け焦げた洞窟にも見えた。沖縄の物語を観ているという意識が見せる、パレイドリア現象(自分が知っているものに当てはめて、それが見えてしまう現象)のようなものかもしれない。

KAAT『ライカムで待っとく』24年度公演_撮影:引地信彦
 


 同じ事実がそこにあっても、人は見たいようにそれを見て、そう思いたいように解釈する。 当事者と一口に言っても、無数のグラデーションがある。切実さが違う。 当事者だから分かることがあり、気付くことがあり、感じることがある。それはその通りだ。でも、当事者でなければ分からない、気付かない、感じないということとイコールではない。「当事者じゃないと」「当事者だから」は、自己責任論にすりかえられる危険もはらんではいないか。当事者と、そうじゃない人の二分化ではなく、誰もが当事者であり、グラデーションが異なるにすぎない。それは「ライカム」という演劇で、観客を当事者として巻き込み、ひっかき傷をつけた劇作家、演出家の思いでもあるだろう。

 観劇から1週間後の6月23日、沖縄は慰霊の日を迎えた。追悼式典では宮古島の高校3年生が平和の詩を朗読した。戦後79年が過ぎても戦争や紛争がなくならないことへの「怒り」を詩に込め、「僕らが祈りを繋ぎ続けよう」と呼びかけた。すがすがしくも、未来を信じたくなる言葉だった。
 その数日後、沖縄県内で起きた米兵による性暴力事件を、政府は県に伝えず、隠していたことが発覚した。地元の琉球新報、沖縄タイムスは連日、1面トップと社会面で続報を、沖縄の怒りを報じ続けた。
  久留米で、横浜で、京都で、沖縄で「ライカムで待っとく」と出合った人は、一連のニュースの文字や音にひっかき傷がうずいただろう。ただの傷ならば癒えていくし、傷痕も見えなくなる。 でもこの舞台が観客ひとりひとりに残した傷は、そんな生易しいものではなかった。

KAAT『ライカムで待っとく』24年度公演_撮影:引地信彦
 


本稿を終える前に、もう一つだけ追記しておきたい。ライカム再演と時期を同じくして、沖縄を描いた小説が脚光を浴びた。
 那覇市出身の豊永浩平さんの小説「月ぬ走いや、馬ぬ走い」(ちちぬはいや、うんまぬはい)が文芸誌「群像」の新人賞に選ばれたのだ。現在21歳の琉球大生がつづった小説は1945年から2023年までの沖縄史を背景に、ヒップホップのサンプリングのようにさまざまな言葉をつないでいく、スピード感のある物語だ。
  おそらく、ライカムを書いた兼島と豊永の問題意識は通底している。沖縄が抱え込まされたままのひずみを、どう見つめ、未来に向けて提示するか、である。
 「ライカムで待っとく」は今後も再演を求められるだろう。劇作家がそれをどう受け止めるかはさておき、再演を続け、観客にひっかき傷を負わせ、棘を残してほしい。
 観る者が傷を負うような演劇をもっと。
 劇場で、待っとく。

塚﨑謙太郎(西日本新聞記者

福岡県久留米市出身。学生時代に松本現代演劇フェスティバル(長野県松本市)で燐光群、新宿梁山泊、プロジェクト・ナビなどを観て演劇にはまる。1993年、西日本新聞社に入社。大牟田、長崎、甘木の支局、社会部などを経て、文化部に長く在籍。佐藤正午、是枝裕和、井上陽水らさまざまな文化人の企画を担当する。現在は論説委員として定期的にコラムを執筆中。好物は久留米荘のうどん。
 
 

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2024年08月30日