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『さいごの1つ前』 批評文 vol.2

久留米シティプラザでは、より開かれた劇場を目指し、久留米シティプラザが主催した自主事業公演の記憶を広く永く共有していくために、舞台写真とともに批評文を公開いたします。
 
2023年8月13日に久留米シティプラザ 久留米座にて上演した、『さいごの1つ前』について、九州大谷短期大学 幼児教育学科 准教授の吉栁佳代子さん、演劇評論家の柴山麻妃さんのお二方に批評文をご執筆いただきました。このページでは、柴山麻妃さんの批評文をご紹介いたします。
 
 
 
記憶の旅
文:柴山 麻妃
 
※注:本作は子ども向けに作られた作品である(KAATキッズ・プログラム2022、2023)。だがその点は一切考慮せずに、大人としてこの作品をどう堪能したかを書き進めたい。
 
 

1.

これは記憶の旅なのか。
死んでしまった3人と彼らの案内人が、椅子の船に乗ってほの暗い「何もない空間」を進んでいく姿に、涙が出てきた。そうか、人は死んだ後、記憶の旅に出るのか。折しも公演日がお盆だったからだろうか、私は大事な亡き人を思い出しながら、これは記憶の旅の物語なのだと思った。

 

死んだミチロウ・マリン・カオルが「地獄の案内人」を名乗るアキオに連れられて、地獄あるいは天国へと案内されるその道中を描いた作品だ。最近は天国もいっぱいで何とかして3人を地獄に連れて行きたい案内人アキオ。天国に入るには「その人にとっての最高の思い出」が必要なのだと言う。生前、ビジネスで成功した(その名は誰もが知っている)ミチロウは自分こそは天国に行くべきだと主張する。先に死んだ父親が待っていると地獄に行きたがるマリン。そしてカオルは自分の名前すらも忘れ、時折思い出す断片もあやふやなもの。「何もない」空間を進んでいく彼らはやがてそれぞれの場所へと移動していく―――ミチロウは、孤独を知り壮大な自然を感じた学生時代のささやかな思い出によって天国に行くことができ、マリンは悪人になりきれなかった自分を思い出すと同時に現世の病院で目が覚めて生き返っていく。そして残されたカオルは…

神奈川公演(2023年7月 KAAT神奈川芸術劇場)舞台写真 撮影:宮川舞子

 
 

本作の一つの肝は「記憶」。生きているということは記憶の積み重ねである。私が生きた証は幻のごとく形はないけれど、記憶があるから「私」で在り続けられる。支えや励みになる幸せな記憶もある一方で、まとわりついて離れない悔恨や苦悩というつらい記憶もある。でもそれらを積み重ねて「私」が成り立っている。死んだはずのミチロウやマリンが、生きていたときの記憶に縛られているのもその裏返しであるし、また、だから天国に入るのに「その人の持つ最高の思い出」が必要なのだ。

それは故人についても同じだ。生身の身体はなくなっても、私たちは亡くなった人のことを偲び、思い出し、懐かしむ。物でも匂いでも場所でも、様々なきっかけで記憶が呼び起こされ、その瞬間、その故人は生きている。私が彼らの旅に涙したのは、記憶という儚いものを大切に大切にしている私たち人間が健気で愛おしいと感じたからだろう。

ところが興味深いことに、白石加代子演じるカオルは記憶がない。自分のことすら分からない。時折ポロポロとあやふやな記憶の断片がこぼれ出てくる。認知症を連想させるが、でも圧倒的に違うのは認知症が「本人が忘れても周りはその人についての記憶がある」のに対して、カオルには彼女のことを知る人がそこにはいないということ。屈託ない彼女がかわいらしくてつい忘れそうになるが、本来ならそれはとても怖いことではなかろうか。私が私を覚えていない、そして私のことを知る人もいない。なんとも出口のないゾッとする話である。果たしてこの話の行き着く先はというと、なんと彼女が有名な女優であることに地獄の案内人アキオが気づくというものだった。アキオは、地獄ではなく現世で幽霊となる「さいごの一つ前」の道を教え、女優のあなたなら誰かに思い出してもらえる、そうしたらもう一度ここに戻ってくるチャンスがあるのだと伝える。

彼女が有名な女優だから思い出してくれる人もいる…? 正直に言えばこの結末に落胆した。有名でなかったら思い出してもらえないというのだろうか。それではあまりにも救いのない話ではないか。

記憶の中に自分の軌跡があるということ。そして仮にその人が亡くなってもその人自身が忘れたとしても、周りがその人の事を記憶している限り在りし日のその人は生きている。あなたの生きた証は、あなたとあなたの周りの記憶の中にあるのだ。だから、どんな人であっても必ず、あなたを記憶している人(言い換えるとあなたを大切に思っている人)がいるはず―――この展開なら納得がいくし、老いや死をむやみに忌避せずに誰にとっても受け入れられる話になったと思うのだが、女優だからという特殊な理由にしたことで、あくまでも「カオルの」物語になってしまった。最後の最後でいきなり自分の物語とはかけ離れてしまった。残念である。

神奈川公演(2023年7月 KAAT神奈川芸術劇場)舞台写真 撮影:宮川舞子

 
 

2.

もう一つ考えた事がある。「生/死」を扱う芝居において、舞台という虚構を破って観客という現実と繋がる試みの相性の良さだ。本作ではカオルたちが「透明幕の向こうに誰かがいる」と気づき(それは観客のことである)語りかけ、観客と意思疎通を図るシーンがたびたび登場する。観客は拍手や足踏みで応じたり、時には子どもが答えを口にしたり、観客としてではなく「作品の一部として」参加することを求められる。子ども向け作品らしい、飽きさせない工夫の一つだ。

演劇はもともと虚構フィクションであることを前提に成り立つ芸術だ。観客が舞台上の虚構に同化するような作法にせよ、観客が舞台上の虚構と一定の距離を保つ異化を狙った作法にせよ、眼前の舞台を「見る」という行為で成り立たせている。多くの劇作家たちが、舞台と観客の関係の在り方を意識的に考えてきた。昨今では観客参加型の演劇(イマーシブシアター)も増えてきている。そんな議論をしなくても、幼児向けの芝居では昔から観客に協力を求め(悪役をたおすのにみんなの声援が必要だ!)舞台の外にいる観客を虚構に「引っ張りこむ」ことをしてきた。

翻って舞台で死後の世界を描くことは、太古の昔からある死後の世界を想像し見たいという欲望の構図と同じ。そして私たちは、恐山のイタコとまではいかなくても夢に故人が出てくれば何らかのメッセージだと受け取ったり、死後の世界から生還した話に興味を持ったりと、死の世界と現実を結ぶことになじみがあり、そのアクセスがあればいいのにとすら思っている。従って、「死んだカオルたちと現世が何らかの形で繋がっている」ことがすんなりと受け入れられるし、その上やり取りができるんだったら願ってもない。「客席/舞台」の関係をそのまま「生/死」に置き換え両者を結ぶ手法は、なるほど相性がいい。(だからマリン役の湯川ひなが観客に語り掛ける時に「幼児番組のおねえさん」のようにならずマリンのままでいてほしかった)

それにしても、ありえない状況を「さもありなん」と思わせてしまう、白石加代子の存在の説得力よ。時間のない空間にいることに違和感がないし、彼女ならお腹から宇宙を生み出してもおかしくないと思わせる。何かを超越した存在と言おうか、安易な言葉で片付けたくないが、特異な存在感としか言いようがない。(ミチロウもマリンもアキオも、こういうタイプの人は周りにいると思うが、白石加代子のカオルだけは、いない。)「さいごの一つ前」に戻ることができるのは、やっぱり彼女のような人に限られるのだろうなぁ…(納得)。

 
 

柴山 麻妃(演劇評論家)

大学院時代から(ブラジル滞在の1年の休刊をはさみ)10年間、演劇批評雑誌New Theatre Reviewを刊行。2005年~朝日新聞に劇評を執筆。2019年~毎日新聞に「舞台芸術と社会の関わり」についての論考を執筆。演劇の楽しさを広げたいと、観劇後にお茶しながら感想を話す「シアターカフェ」も不定期で開催中。劇評と、演劇情報を2つのブログにて執筆。
 
 

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