「はじめての能『巴』~Now, Know Noh!~」 解説&アフタートーク レポート
2025年2月1日(土)に久留米座の特設能舞台で開催した「はじめての能『巴』~Now, Know Noh!~」。上演に先立ち行った木ノ下裕一さん(木ノ下歌舞伎 主宰)による解説と終演後に巴御前を演じた多久島法子さんを迎えてのアフタートークの模様をお届けします。
まずは『巴』を構成している3つの場面、前場(まえば)・間狂言(あいきょうげん)・後場(のちば)の見どころについての解説から。
〈木ノ下〉前場では琵琶湖の湖畔にやってきた木曽の僧と、さめざめと泣いている里の女(巴の幽霊)との会話が中心です。同郷である木曽の僧との会話の中で巴が徐々に心を開き、二人の距離が縮まっていくところが見どころ。しっとりとしたリズムで展開する前場は舞台が湖畔、客席(見所:けんしょ)が琵琶湖というイメージで鑑賞してもらうと情景が広がります。
間狂言は前場の客観的な説明です。後場で巴本人が語る話とは多少見解が違うので、その見比べをするのが面白い。予習、復習をして巴のことを知る場面となります。
後場では、木曽義仲と巴が一緒に戦っている戦の景色を再現。前場での女性らしい装いからガラッと変わり、長刀(なぎなた)を持って女武者の装いで現れます。ここまでが第一の見せ場。二つ目は自害した義仲の遺体に別れを告げて木曽に落ち延びていく場面。勇壮で華やかな力強い戦の場面とは打って変わってしっとりとした別れの場面へ転換します。能は小道具を象徴的に表現しますが、今回の久留米ヴァージョンでは特別に本物の小袖と笠を使い、能の中でも踏み込んだ演出となっているのも見どころになります。
ここで、初めて能を鑑賞される方のためにポイントを3つ。
1:能のリズムに合わせる。シテが登場した時のお囃子がチャンスです。このお囃子にのりながら鑑賞すると、体内と能のリズムが合ってきます。
2:余白を楽しむ。能は抽象舞台で小道具があまりないので景色・心情を自分の頭の中に投影します。例えば、シオリ(泣いている、涙を流していることを象徴する型)が何度も登場しますが、これは感情が一番高ぶっている場面。「なぜ泣いているのだろうか?」、巴の気持ちを想像していくと心情がイメージできるようになってきます。
3:アンテナ(情報網)を増やす。途中でストーリーや言葉が分からなくなったりしたら、潔くあきらめましょう。その時は物語を追いかけるのではなく、音楽・装束(衣装)の柄・所作の美しさを楽しむ等、アンテナの幅を広げておくと面白い瞬間が続きます。
解説が終了し、能への理解が深まったところで本公演が始まりました。
本公演終了後には、木ノ下さんと巴御前を演じた多久島法子さんのお二人によるアフタートークを開催。
〈木ノ下〉能の世界では、男性がシテを演じることが多いのですが、法子さんの『巴』を拝見していると、『巴って女性なんだよな』ってことをいつも以上に意識しました。当たり前だけど、あらためて『女性であること』が可視化されたように感じました。法子さんは巴という女性をどう演じられましたか?
〈多久島〉巴は戦の中で義仲に寄り添った女武者という力強さがついてまわりますが、一人の女性としての心の動き・心情を大切に、普段よりも神経をとがらせて演じました。
〈木ノ下〉心情の細やかさを演じるにあたり、シオリの場面が何度も出てきましたね。
〈多久島〉どうやったらお客さんに伝わるかを考えました。静々とした悲しさ、泣きたい悲しさ、我慢して我慢して零れ落ちる一滴、ひと場面ひと場面、自分でも想像しながら稽古を重ねました。
〈木ノ下〉スピードや間で悲しみの質感が変わりますよね。
〈多久島〉まず、最初のシオリ(琵琶湖に向いて泣いている)の場面は、巴自身も何が悲しくて泣いているのかわからない。巴とともにお客さんが一緒に悲しみの原因を見つけていく場面です。
〈木ノ下〉悲しみの最大のポイントは、義仲の『女なんだから最後まで一緒にいる必要はない』という一言ですよね。
〈多久島〉巴の立場としては、愛する人と一緒に添い遂げたいという気持ちもあるけれど、どちらかというと主従関係という思いの方が強いんです。
〈木ノ下〉はっきりと出てはいないけれど、恋愛感情よりも主従関係の方が重い?
〈多久島〉だからこそ、女武者としての気概を『女だから』という一言で否定された時の悲しみが深く出たのでしょうね。
〈木ノ下〉演じる人によっては恋愛感情を強く出す方もいて、もちろんそういう解釈もありますが、主従関係の気持ちが強いからこそ、怒りと悲しみが増したのではないかと思います。巴のテーマは、現代風に言えばジェンダー。自分ではどうすることもできない事情で望みを叶えることができなくなったということはよくあります。今までは女性であることを超越して一緒に戦ってきた戦友であったのに、この期に及んで女性扱いされたことに対しての戸惑い(痛恨、怒り・悲しみ)があったのですね。
〈多久島〉例えば、『汝は女なり』というセリフの場面では、主従関係の方が強いという気持ちを表現し、『なんで?』『どうして?』という心情が伝わるように面(おもて)の起こし方を工夫しました。たった数秒や数文字の言葉の違いで心理描写や印象が変わるんです。
〈木ノ下〉解釈の違いもありますが『汝は女なり』のタイミングで面を起こすのと『汝は女』で起こすのとでは気持ちの伝わり方が違ってきますよね。
〈多久島〉巴は舞が一切なく、最初から最後まで所作(型)で巴の心情を表します。能楽の演じ方の中でも珍しい演目。だからこそ、観客の気持ちとリンクしていかないと面白さが伝わらないと思うんです。
〈木ノ下〉義仲を象徴する道具が置いていないことで、巴だけに集中できる。良い演出だと思いました。
〈多久島〉義仲の気持ち、巴を逃がす口実。『最期まで女性を連れていたら後世の恥、戦線を離脱して逃げ延びろ』、そこまで言わないと巴は離れない。お互いの心情のすれ違い、義仲の親心も強いのかもしれない。実際に義仲が役として出てきていないから、観客は心の中で人物像を作ることができる。良い義仲を想像するか、冷たい義仲なのか…だからこそ何回見ても面白いんですよね。
〈木ノ下〉今回、特別な演出として、実際に白い小袖を羽織る場面がありましたね。
〈多久島〉今まで背負ってきたものを失い、空っぽの気持ちを表現するのには、白は効果的な色だったと思います。
〈木ノ下〉長刀が赤、甲冑も赤、赤が取り払われて透明になって戻っていく。抜け殻になった印象をもちました。面を増女(ぞうじょ:憂いがかった、深みのある表情の面)にした理由は?
〈多久島〉揺れ動く心情を表現するために増女の面を選びました。
〈木ノ下〉増女の面は特に前場でいきていました。義仲は国土安穏の神として祀られていているけれど、巴は蚊帳の外にされた、という無念さが表れています。
〈多久島〉ギリギリまで迷ったのですが、前場では数珠を持って出る演出にしました。巴が幽霊とした出て来た目的。義仲との別れのありさまを見てほしい、聞いてほしい、とともに自分の供養もしてほしい。やるせない、添い遂げて死ぬことができなかった女心も弔ってほしいという思い。今回のテーマが『はじめての能』ということで、視覚的にもわかりやすくやってみようと思いました。
〈木ノ下〉能という芸能は正史の中では名前が出てこなかったり、詳しく語り継がれなかった人の人生・心情をピックアップして語り継ぐ舞台芸術です。今回なら、巴という女性にスポットをあてているわけです。声なき声を舞台の中で聞くことができる、これも能の大事な要素ですよね。
〈多久島〉〝シテ一人(いちにん)主義″という言葉もあるように、主人公ひとりだけ出てきて、生きている頃の話や気持ちを延々1時間、2時間話すという芸能はなかなかない。なのに、一人ひとりの人生に現代の私たちにも通じる魅力があるのが能の素晴らしさ。巴のような男社会に生きる女性のあり方であったり、愛する人と添い遂げられなかった、離れ離れになった悲しさだったり、様々な立場に寄り添えるのが、巴の魅力。だからこそ700年も語り継がれてきた所以なのかなと思います。
〈木ノ下〉巴を鑑賞しながら、自分自身の気持ちや環境に重ねることができるのが能の醍醐味かもしれませんね。
★来場者の感想を一部ご紹介します。
・ガイダンストークも面白く、1時間以上の公演でしたが、能の世界に引き込まれました。アフタートークで多久島法子さんが小柄でお若いことに驚きました。演じられている時は存在感が際だっていて、とても大きく見えました。
・巴御前の解釈で恋愛か主従関係かという話があったが、恋愛感情よりも主従関係を重視する巴御前の心情はどの様に解釈すればよいのだろうか。個人的な考察では巴は主従関係をベースにした上で恋愛関係を考えたのだと思う、その様に考えると巴の無念さは一層なものであったといえる。そういった意味でこの物語は現代人にも通ずる「古くて新しい恋の物語」なのだと思った。
・勇ましさの中にも、何とも美しい巴でした。キリは涙が出そうでした(感動!)
・解説、能、アフタートークというスタイルはとても面白い、たくさん、なるほどがありました。心で観る能の素晴らしさを感じました。木ノ下さんすばらしい。
★「はじめての能『巴』~Now, Know Noh!~」公演概要はこちら