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石原海『重力の光:祈りの記録』批評文

久留米シティプラザでは、より開かれた劇場を目指し、久留米シティプラザが主催した自主事業公演の記憶を広く永く共有していくために、舞台写真とともに批評文を公開いたします。
 

2024年11月30日(土)、12月1日(日) に久留米シティプラザ Cボックスにて上演した石原海『重力の光:祈りの記録篇』について、西日本新聞記者の川口史帆さんに批評文をご執筆いただきましたのでご紹介いたします。
 
 
「大丈夫だよ」と肯定される時間
   文:川口史帆

 

 「重力の光 祈りの記録篇」(監督:石原海)を初めて観た2022年、本作について「『立ち直り』の意味に迫る」作品だと記事に書いた。本稿の依頼を受けて2度目の鑑賞となった今回、気づいたことがある。これは「あなたのままで大丈夫だよ」と、あらゆる鑑賞者を肯定する物語だ。「早く」「正しく」「良いものを」「迷惑をかけず」「美しく」「普通に」…。社会生活で求められることへの焦燥感から、72分間の映像によってちょっとだけ解放されるような感じがした。終映後、明かりがついてからもしばらく、心地よさが続いた。 

舞台は、困窮者支援を行う北九州市のNPO法人「抱樸」の奥田知志理事長が牧師を務める、東八幡キリスト教会。生きる意味に悩む人、ホームレスだった人、虐待を受けた人、支援活動を心の支えにしている人などさまざまな背景をもって教会に集う9人が、イエス・キリストの受難と復活がテーマの演劇を作る過程を見つめたドキュメンタリーが軸の映像作品だ。劇の練習風景や礼拝、支援活動の様子といった日々の記録と、出演者へのインタビュー、そして完成した舞台。これら3種類の映像をクロスさせながら、それぞれがこの場に身を寄せる理由や「祈る」ことの意味を映し出していく。

画像:石原海<重力の光>2022


 9人が演じるのは、イエス・キリストが反逆者として十字架にかけられる新約聖書のエピソード。自分が処刑されると知りながら最期の地に赴いたイエスは、「最後の晩餐」で葡萄酒とパンを自分の血と肉に見立てて弟子たちに与え、弟子たちの汚れた足を自らの手で洗う。その後、弟子に裏切られたイエスは、鞭で打たれ、民衆に罵られ、最後には磔刑に処されて死ぬが、3日後に「復活」を遂げる。イエスは人が生まれながらに持っている「罪」を自らの死と引き換えに取り去ってくれた「救世主」であり、私たちはそのおかげで生かされていると教える、キリスト教の基礎を成す物語だ。
 インタビューでは、イエスや弟子たち、天使などを演じる9人がそれぞれの半生を語り、心に負った傷や犯した過ち、育った環境といった胸の内を打ち明ける。ところどころに演劇のシーンが挿入され、出演者自身の人生と交差する構成が印象深かった。


「主よ、彼らをお許しください。彼らは何をしているのか自分で分からずにいるのです」。十字架にかけられたイエス・キリストが、自分を殺そうとしている人たちの罪を赦すよう神に祈る場面。「他人を救ったのだから自分も救ってみせろ」と民衆からの罵声を浴びるイエスを演じる「菊ちゃん」は元暴力団組員だ。5回の服役後に組織を抜け、「かたぎの道」を歩もうとしたがことごとく拒絶され、就労できずにホームレスになった。

「たくさんの人を殴り蹴り、泣かせてきました」「今責任取ってと言われたらお手上げですね」。インタビューでは扇子を手にひょうひょうと語る菊ちゃんだが、かつては「悪人」の烙印とともに社会から疎外され、孤独と絶望の中に沈んでいたのだ。そんな時、路上生活者に弁当を配布していた抱樸の人たちと出会い、教会に通い始めた。今では奥田牧師をボスと慕い、支援する側として活躍する菊ちゃんは言う。昔の自分であれば傷つけたかもしれない周囲の人々に「生かされて今がある」


 聖書の物語を再現したセットと衣装、さまざまなライトで演出された舞台映像とは対照的に、インタビューはモノクロ。黒い背景に輪郭のぼやけた人物が白く浮かび上がり、抽象的な人影のようにも映る。語られるのはどれも個人的で特別な体験だが、悩みや苦しみや不安といった誰もが持っている普遍的なものであると暗示しているようだ。一方、人物の内側から光を発しているような映像効果が、つらさと共にある人の中にこそ暗闇を照らす希望があるのだ、と伝えているようにも見えた。

画像:石原海<重力の光>2022


「私自身クズでだらしないところがあるし、自己肯定感も低い。どうしようもなさを抱えた人たちに、仲間だって表明したい」。本作が初公開された2年半前に取材したとき、監督の石原海さんはこんなことを話してくれた。制作のきっかけは、個人的な理由から住む場所を失って路頭に迷っていたとき、この教会で寝泊まりさせてもらったことだという。コロナ禍で再び途方に暮れ、北九州市に移住して教会に通いはじめた。さまざまなバックグラウンドの人たちの中で過ごしているうち、「だめな自分のままの存在を赦されている」と感じるようになったという。それまで、自分史をベースに生きづらさや社会への怒りを表現してきた石原さん。自分のことしか考えていなかったというが、自己が肯定されたと感じたことで「初めて他人に興味を持ち、一人一人の愛しい人生を記録したいと思った」


 そのような実感と動機に基づいて作られた本作は「社会復帰」や「立ち直り」を見せるドキュメンタリーではない。石原さんにとって出演者たちは取材相手ではなく、同じ世界を生き、自分と同じく何か助けを求めている「隣人」なのだ。


 弟子、民衆、マリアの3役を演じた西原宣幸さんは、11年にわたりホームレス生活を送った経験を持つ。ある日、公園で四つ葉のクローバーを探していると、幼い子どもが「何しているの」と笑顔で声をかけてきた。「一緒に探そうか」と言ったが、程なく母親が飛んできて、子どもを連れて行ってしまったという。「自分が惨めで、悲しかった」

 イエスに鞭打ちの拷問を加える「かんな」さんは、児童虐待のサバイバーだ。幼少期から親戚の家や児童養護施設、病院などをたらい回しにされて育った。抱樸にたどり着いた直後、かんなさんは暴言や暴力を繰り返した。ずっと大人から見捨てられてきたから、周囲を試していたのだとかんなさんは言う。「仲良くなってから裏切られるのはもっとつらいけん、早い方がいい」 語られるつらい記憶は、本人が生きてきた証しでもある。それぞれの大切な物語そのものに、石原さんは向き合う。 日常の風景に転じると、9人はショッピングモールでプリクラを撮ったり、カップ酒をフードコートでだらだら飲んだりする。カメラが追いかけ、映し出すのは、自分を「盛らず」に自然体で関わり合う姿。自分の弱さを告白した彼らが、ありのままでいいのだと認め合っている関係性には、見捨てられないという安心感もただよっていた。

画像:石原海<重力の光>2022


 唐突に差し込まれる不思議なシーンがある。天使の姿のかんなさんが、緑が広がる丘陵地で風に吹かれながらたばこを吸っている。背の高い茂みの中を、別の天使が不思議なステップでおどっている…。


 その光景に、「赦し」のようなものが見えた。私たちは不完全な存在で、そのままでは「重力」に引っ張られて下へ下へと向かってしまう。しかし、それは自分が悪いからではなく、人として生まれた以上、当たり前のことである。不完全さを認め合い、共に生きようとするとき、そこからふっと解き放たれるのだ。「祈り」はそのためにある。そんな石原さんのメッセージを受け取ったとき、鑑賞者も彼らの隣人となり、自分が肯定されているような気持ちになれると思う。


 彼らの「ホーム」であるNPO法人抱樸は2025年2月、救護施設やシェルター、子どもの学習支援、生活相談窓口といった機能を備えた複合型社会福祉施設「希望のまち」(北九州市)を着工する。どんな人でも自分を偽る必要がなく、困ったときには「助けて」と言えるような共生社会の拠点を作る、全国に先駆けたプロジェクトが始まる。
  現実には、格差やヒエラルキーが固定化し、自己責任論がはびこる社会でありのままの自分を見せるのは難しい。背伸びをして、誰かからの「いいね」を求め多くの人がさまよっている。私もその一人。本作鑑賞後の心地よさも、日常に戻ればほどなく消えてしまうだろう。だからこそ劇場に集い、観劇体験をともにすることで、それぞれの「大丈夫だよ」をなんとなく共有する、そんな時間が「祈り」のように大切で尊いのだ。
 

画像:石原海<重力の光>2022

 

川口史帆(西日本新聞記者

福岡県福岡市出身。2012年西日本新聞社に入社。福岡本社、佐賀総局、編集センター、生活や福祉の担当を経て2021年より文化担当。アート、演劇、文芸などの文化芸術と社会との関わりをテーマに、ジェンダーや福祉の観点から取材している。
 

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石原海『重力の光:祈りの記録』批評文

2025年03月09日