贅沢貧乏「わかろうとはおもっているけど」批評文
2025年12月6日(土)、7日(日) に久留米シティプラザ Cボックスにて上演した贅沢貧乏「わかろうとはおもっているけど」について、佐賀大学美術館 学芸員の五十嵐純さんに批評文をご執筆いただきましたのでご紹介いたします。
文:五十嵐純
観劇後からこの文章を書き終える今に至るまで、説明しきれない「もやもや」が身体の奥に残り続けている。作品タイトルそのものが示す「わかろうとはおもっているけど」という消化不良の保留の状態が、時間をかけてじわじわと響いている。この余韻の長さこそが、本作のもつ強度なのだろう。
開演前、二人のメイドが客席を歩き回る。床に落ちたゴミを拾うようなしぐさや、ささやき合う会話。物語が始まる前から、舞台空間ではすでに何かが進行している。できるだけ前情報を入れずに臨んだ私は、否応なくその動きに視線を奪われた。 物語は、テル(大場みなみ)とこう(山本雅幸)という、ごくありふれたカップルの会話から始まる。しかし、その何気ないやり取りは、ほどなくして微細な「かみ合わなさ」を露わにする。妊娠という出来事をきっかけに、二人の関係性は揺らぎ始め、テルの友人(佐久間麻由)や、なぜか家にいるメイドたち(大竹このみ・青山祥子)を巻き込みながら、女性と男性、または人と人のあいだにある「わかりあえなさ」が前景化していく。

『わかろうとはおもっているけど』(2025年 東京公演)Photo: Kengo Kawatsura
ここで、筆者自身の立場を明らかにしておきたい。筆者は美術館学芸員であり、40代前半の*シスジェンダー男性、一児の父である。恥ずかしながら演劇については決して詳しいとは言えず、観劇回数も多くない。本来であれば、演劇批評に長けた書き手が担うべき原稿かもしれない。この執筆依頼が私に届いた背景には、当時、私の所属する佐賀大学美術館で、6組の女性の作り手を紹介する展覧会を開催していたことがあるだろう。現在の職場に来てからの約2年間、私は女性作家による企画展を続けている。これには、現在の美術業界におけるジェンダーバランスへの問題意識がある。加えて、当館の所蔵作品が男性作家のみであるという現実も無視できない。同時に、昭和に生まれいまだ男性優位な社会構造の中で育ってきた自分自身の経験や、これまでに見てきた男性作家中心の美術界への違和感も影響している。とはいえ、公私ともにフェミニストであると自認できるほどの実践を積み重ねてきたわけでもなく、本作に寄せれば「わかろうとおもっている」ということであるかもしれない。
さて、このような個人的な立場をあえて記すのは、この『わかろうとはおもっているけど』という作品が、鑑賞者の社会的属性や立ち位置によって、受け止めが大きく異なる演劇だと強く感じたからである。客観性を保とうと自らの属性から距離を取り、第三者として「わかろうとする」態度そのものが、実際の「わかりあえなさ」を温存してしまいかねないことに気付かされる。

『わかろうとはおもっているけど』(2025年 東京公演) Photo: Kengo Kawatsura
とりわけシスジェンダー男性である私には、こうの言動の端々に、「相手を思いやろうとする配慮をとる態度」が感じられ、ついつい共感してしまう瞬間があった。それは、前世代的な男性性を無自覚に再生産しないための努力として、一定の誠実さを備えているようにも見える。しかし同時に、その「わかろうとはおもっている」姿勢そのものが、関係性の歪みを生み出していく。相手を傷つけないようにするための言葉選び、沈黙の長さ、反応を先回りする癖。そうした細部の積み重ねが舞台上で可視化されていくのを見ながら、「ああ、自分もこんな態度を取ってきたのだろう」と思わされる瞬間が何度もあった。そこには、無自覚な自己弁護や甘えが折り重なり、少しずつ関係性に歪みを生じさせていく構造がある。
こうした関係性の揺らぎを、別の角度から照らしているのが、メイドたちの存在である。テルとこうの関係性に引き寄せられがちな視線の背後で、彼女たちは料理や掃除といった家庭内の再生産労働を体現する存在として佇んでいる。物語中盤まで、こうが彼女たちの存在に気付かないという設定は、それらの労働がいかに不可視化されてきたかを端的に示している。開演前、客席を動き回るメイドたちに向けられた観客の視線が、ここで遅れて回収される。家父長制的な役割分担に順応してきた先輩メイドと、ルールそのものに違和感を覚える新人メイド。その関係は、「疑問を持つことが許されず環境に適応してきた態度」と、「疑問を抱かずにはいられない態度」とのあいだに横たわる、世代的な断絶を浮かび上がらせる。

『わかろうとはおもっているけど』(2025年 東京公演) Photo: Kengo Kawatsura
物語が進むにつれて、それぞれの登場人物に対して「わかろうとは思っているけれど」という留保が生まれ、その留保はやがて、作品の外にいる観客自身の態度へと転位していく。本作は、物語を追えば追うほど批評的な足場を不安定にし、「自分はどこに立っているのか」という問いを突きつけてくる。
本作が鋭いのは、誰かを明確な加害者として描かない点にある。そのため、観客は登場人物を容易に断罪することができない。物語後半、妊娠をめぐる不安や葛藤を、こうという男性が引き受けるというジェンダーロールの反転が提示される。この一見SF的な設定は、単なる思考実験ではなく、共感の回路そのものを攪乱する装置として機能している。私たちは、誰の不安には容易に共感し、誰の言葉を無意識に軽んじてきたのだろうか。

『わかろうとはおもっているけど』(2025年 東京公演) Photo: Kengo Kawatsura
ラストシーンでテルがリンゴを頬張る場面は、アダムとイブの「禁断の果実=善悪の知識の木の果実」を否応なく想起させる。善か悪か、正しいか間違っているかという二分法では捉えきれない、「知ってしまったあと」の地点。本作が観客を立たせるのは、もはや無垢ではいられない場所で、それでも考え続けるしかないという地点なのだろう。
「わかろうとはおもっているけど」という言葉は、ときに理解の手前で立ち止まるための、あまりにも出来のよい言い訳になってはいないだろうか。「理解者である」という態度は、相手に歩み寄っているようでいて、自分だけが無傷でいるための防御にもなりうる。本作は、その防御を静かに剥がし取り、観客自身に突き返してくる。 芸術の意義の一つは、明確な答えを示すことではなく、「問い」を手放さずに残すことにあると感じている。本作『わかろうとはおもっているけど』は、その「けど」を曖昧なまま差し出す作品だ。自分を過度に責めることなく、しかし免罪符にもせずに、その「けど」と共にどう生きていくのか。本作の英題は「I’m Trying to Understand You, But」である。わかろうとしたいのは、制度や状況ではなく、目の前にいる「あなた」なのだ。それは日々変わり続ける存在であり、固定された正解はない。自分が正しいと思っている行為や言葉が、相手にとってもそうであるとは限らない。その不確かさを引き受けながら、それでも「わかろうとし続けること」— 本作は、その困難で、しかし手放すことのできない姿勢を、観客一人ひとりに静かに委ねている。
*シスジェンダー男性~出生時に割り当てられた性別が男性で、自身も男性だと思っている人
五十嵐純(佐賀大学美術館 学芸員)

