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『小さな王子さま』批評文

久留米シティプラザでは、より開かれた劇場を目指し、久留米シティプラザが主催した自主事業公演の記憶を広く永く共有していくために、舞台写真とともに批評文を公開いたします。
 

2024年10月20日(日) に久留米シティプラザ 久留米座にて上演した『小さな王子さま』について、九州産業大学人間科学部子ども教育学科講師 池田竜介さんに批評文をご執筆いただきましたのでご紹介いたします。
 
 
「子ども」がつくられる契機
   文:池田竜介

 

< はじめに >

 はじめに言い訳がましいことを述べたい。というのも私は、文学あるいは文芸に馴染みがない。劇場に足を運び観劇をするのはこれが初めてである、といえば、私がいかにど素人であるか伝わるだろう。他方で、これから述べることを大目に見てほしいからという理由で、ど素人ぶりをアピールしたわけではない。むしろ、私の視角を明確にするために必要な作業であるから、はじめにこのことを述べようと思ったのである。
 私が観た「小さな王子さま」(以下、「本作品」とする)は、サン=テグジュペリ原作の「星の王子さま」を下敷きにした作品である。本作品は、子どもに、あるいはかつて子どもだった大人に向けられた作品である。そして、本作品を生み出したのは大人である。
 この場において私は、本作品を文学あるいは文芸として捉えない。そうではなく、「子ども」を現実化する1つのメディアとして捉える。その上で、私はただ分析する。本作品が語る、あるいは本作品を通して語り得る「子ども」とはどのようなものであるかを。


1. 本作品の始まりであると同時に物語の終着地点

 本作品のタイトルでもある「小さな王子さま」は、本作品に登場する唯一の人間の「子ども」である。小さな星で生まれ育った王子さまは、いくつかの惑星を渡り歩き、やがて地球の砂漠に辿り着く。そこで王子さまはある飛行士と出会い、これまでの旅を回顧し、故郷の星へ帰っていく。これが本作品の大筋の流れである。
 その飛行士が砂漠にいたのは、操縦していた飛行機が砂漠に墜落したからだ。飛行士は眼前に散らばる飛行機の残骸を見て、墜落の事実に絶望する。そんなことはお構いなしに、王子さまは飛行士に話しかける。「羊の絵を描いて」と。王子さまに当惑しながら、飛行士はポケットから紙とペンを取り出し、何かの絵を描いてみせる。それは一見して「帽子」に見えるが、王子さまはそれが「大蛇に飲み込まれた象」の絵であることを看破する。


 王子さまがなぜ羊の絵を欲しがるのか、作中では明示されない。したがって、王子さまの言動は非論理的で荒唐無稽に見える。しかし、それゆえにだろうか。王子さまは、かつて飛行士が子どもだった頃に描き、周囲の大人から理解を得られず、今再び飛行士によって描かれた「大蛇に飲み込まれた象」の絵を理解する。そのことに、飛行士は驚くのである。その後も、王子さまは「羊の絵を描いて」と飛行士に言う。飛行士はその要求に応えようと羊の絵を描いて渡すが、王子さまは文句ばかり垂れる。そのことにうんざりした様子の飛行士は箱の絵を描き、「君の欲しい羊はここだよ」と言って渡す。そして、王子さまはその箱の絵を見て、「ちょうどこんなのが欲しかったんだ」と満足する。
 本作品の序章に当たるこの場面だけを取り上げるならば、やはり王子さまの言動は荒唐無稽に見える。羊らしく描かれた絵には一切満足せず、箱の絵に満足するからだ。ただし本作品を最後まで観れば、この時の王子さまの心情は理解できるようになる。本作品の序章の場面は、作中の時系列でいえば最も未来の出来事である。王子さまは、地球の砂漠で飛行士と出会う1つ前の旅路でキツネと出会っている。その時に王子さまは、「本当に大切なことは目には見えない」ことをキツネから教わっている。だからこそ砂漠に辿り着いた王子さまは、箱の中にいるであろう目に見えない羊を愛しく思ったのであろう。いくつもの惑星を旅し、様々な大人と出会い、折に触れて落胆しながら、最後に出会ったキツネから大切なことを教えてもらった王子さまは、自分の星に帰る道中で地球の砂漠へ訪れる。王子さまと飛行士の邂逅[かいこう]はその一幕である。

 

2.「缶詰」に閉じ込められる大人

 「本当に大切なことは目に見えない」。これが本作品の主題であろう。砂漠で出会った王子さまと飛行士は、やがて水不足で衰弱する。その時も王子さまは、キツネのことを思い出し、その言葉を反芻する。そのような王子さまに対して、飛行士は「キツネなんかどうでもいい」と声を荒げる。死に直面している状況なのだから、飛行士の怒りはもっともだ。それでも王子さまは、キツネとの出会いに感謝しながら、そのまま気を失うのである。キツネから教わった言葉、「本当に大切なことは目に見えない」という言葉は、王子さまにとって、それほどまでに意味のある言葉なのだろう。そうであるがゆえに、本作品を観終えてから王子さまの言動を振り返ると不可解な点が残る。
 王子さまは、羊(≒箱)の絵を受け取ってからも、飛行機の修理をする飛行士に話しかけることをやめない。最初は適当に相手をしていた飛行士も、しつこい王子さまに苛立ちを隠せなくなり、遂にはこれまでのやり取りは適当に受け答えしていただけだと暴露する。そして、「僕は真面目なことに忙しい」と言って王子さまを突き放す。その言葉を聞いた王子さまの表情は曇り、ある惑星で出会った「真面目な大人」のことを吐露する。その大人は計算ばかりする人間で、花の美しさも知らなければ友達の大切さも知らない。「そんなのは人間じゃない」と王子さまは言う。「缶詰だ」と言うのである。
 この「缶詰だ」という王子さまの台詞が妙に私の記憶に残ったが、最初はユニークな比喩表現くらいにしか思っていなかった。しかし本作品を観終えた後で、王子さまが「真面目な大人」を「缶詰」と蔑むこの場面に強烈な違和感を抱くことになった。なぜならば、「缶詰」の中身もまた、箱の中の羊と同様に不可視であるからである。いくらでも夢想し得るにも関わらず、王子さまは「缶詰」の中身には興味すら示さないからである。
 王子さまにとっての「本当に大切なこと」は、故郷に残した1本(1人?)のバラとの関係性である。だから王子さまは、羊(≒箱)の絵を受け取ると、その羊がバラを食べてしまわないかとやたらに心配する。ところが、劇中の描写を見る限りでは、王子さまがバラに執着する理由はよくわからない。旅立ちの日、故郷の星で王子さまはバラを見つける。バラは王子さまに「咲いたばかり」だと言い、王子さまは「花を見るのは初めてだ」と言う。つまり、王子さまとバラはその時が初対面である。そして王子さまは、そのバラといくつかの言葉を交わすだけで、その後すぐに旅に出ることになる。
 王子さまが旅の中で最初に出会うのが、ある惑星の「王様」である。「王様」は、自分が全世界を支配しており、全てが自分に従うと豪語する。王子さまは、ならば日が沈むのを見たいので太陽に今すぐ沈むように命令してほしい、とお願いする。すると「王様」は、蝶のように飛べとお前に命令したらお前はそれができるのか、と王子さまに問い返す。つまり「王様」は、実行不可能な命令を下すことは愚かなことであり、権威には必然的に道理が求められることを王子さまに説いているのである。しかし、その言葉は王子さまには響かない。「王様」が太陽に命令することができないことがわかった王子さまはその場を離れようとするが、「王様」は法務大臣に任命するからこの場に残るように王子さまに命令する。すぐに旅を再開したい王子さまは「ここには裁く人がいない」と反論し、「王様」は「ならば自分自身を裁けばよい」と応える。なぜならば、「自分自身を裁くことができる者が本当に賢い人間であるから」である。


 率直にいって、私には「王様」が思慮分別のある大人に見えた。無理難題をふっかける王子さまに怒ることなく、身近なたとえ話を用いて諭しているからである。そればかりか、「自分自身を裁くことができる者が本当に賢い人間である」という金言も与えている。この言葉はキツネの台詞にも通じるはずだ。なぜならば、私たちは自分自身を直接見ることはできず、したがって自分自身を裁くためには、目では捉えられない何かを洞察しなければならないからだ。実際に、王子さまは自分自身を裁いたからこそ旅の終わりを自覚し、故郷の星に残したバラのもとへ帰ろうとしている。そのような見方もできる。しかし、王子さまが反芻するのはキツネの言葉のみである。「王様」はただの「缶詰」の1人に過ぎず、恐らく、その中身が覗かれることはないのであろう。
 「王様」は高慢な態度で王子さまに接する。王子さまはそれが気に入らなかったのかもしれない。しかし、故郷のバラも同様に高慢である。初対面の王子さまに、「自分は世界中の何よりも美しい」と豪語して憚らないのだから。ならばなぜ、王子さまはバラにだけ殊勝な態度を示すのだろうか。故郷に残したバラは孤独で、気の毒かもしれない。しかし、「王様」も同様に孤独である。王子さまが「王様」の目の前であくびをした時、「王様」は「誰かがあくびをするところを久しぶりに見た」と言う。しかし、その言葉の端々に見え隠れする彼の孤独など、王子さまには思いも寄らないのだろう。


3.「目に見えないもの」≒「目に映したいもの」

 「王様」の言葉はキツネの言葉と同じ重みを持ち得るが、そうはならなかった。出会う順序が異なったとしても、「王様」の言葉が王子さまの琴線に触れることはないだろう。ここにはある種の矛盾がある。確かに、現実の子どもたちも矛盾をはらみながら生きているが、その矛盾とここでいう矛盾とは性質を異にする。なぜならば、王子さまは創作の「子ども」であり、大人の作為に満ちた「子ども」だからである。つまりここには、王子さまというフィルターを使って、形づくりたい「子ども」の意味があるのだ。
 本作品は、人間の大人に対して悲観的である。思えば、王子さまと飛行士の出会いの場面からそうだ。「羊の絵を描いて」と言われて飛行士が最初に描いた絵は、彼が子どもの頃に描いた絵だった。彼の周囲の大人たちは、その絵の表層的な部分だけを見て「帽子」と認識するが、王子さまだけが「大蛇に飲み込まれた象」であることを見抜いている。まるで、「子ども」だけが目に見えない本質を見抜くことができるかのようである。その後も、「子ども」である王子さまはいくつもの星を渡り、何人もの「真面目な大人」と出会い、真面目さに辟易するようになる。なぜならば「真面目な大人」たちは、「世界」や「星」を相手取って働いていると声高に述べるが、「世界」や「星」が何であるかについては全く無頓着であるからである。ゆえに大人の言葉は空虚であり、どれだけ立派な語が並んだとしても、「子ども」である王子さまに響くことはない。王子さまが心を通わせることができたのはキツネだけである。王子さまが心を痛めたのはバラのことだけである。
 さらに本作品は、原作にはない独自の場面が2つ挿入されている。1つは、地球の指導者たちがサミットを開き、「地球のために」という詭弁を並べて環境破壊を推し進める場面である。もう1つは、動物たちがラップ調の音楽に合わせて戦争反対を訴える場面である。本作品オリジナルの展開においても、大人は愚かしいことを行う存在であり、大人を糾弾する存在として動物たちが位置づけられている。しかも動物たちは明言するのだ。「子どもを救おう」「子どもを保護しよう」と。



 ここには、典型的なルソー的「子ども」観が現れている。すなわち、文明を悪と見なし、自然を善と称揚し、自然の中でこそ「子ども」の本性が芽吹くという教育的信念が感じられるのである。ルソーにおいて、自然状態を生きる「子ども」は大人がつくり出す文明社会から保護されなければならず、「子ども」にとっては自然こそが最も優れた教材である。ルソーが生きた時代から200年以上が経過した現代においても、その影響力が色濃く残っていることに驚くばかりである。
 純真無垢な王子さまは全き善なる「子ども」であり、したがって正しく、自然の美しさに気づくことができる。あるいは正しく、文明の悪辣さに疑問を持つことができる。翻せば本作品を通して、それらの要求が現実の子どもたちに突きつけられている。そうであるならば、「本当に大切なことは目に見えない」のであろうか。むしろ、子どもの「目に映したいもの」だけが、本作品において、現れているのではないだろうか。無論、それはそれで教育的ではあるのだが。
 私が感じ取ったある種の矛盾、それは「目に見えないもの」を選択的に可視化して提示しようとする本作品の作為である。目に見えない「王様」の孤独と悲哀は、コミカルな演出と共に掻き消されている。地球の指導者たちのサミットの場面でも、指導者の1人が地球の環境破壊に警鐘を鳴らす専門家の言葉を「無駄話」と嘲笑するシーンがある。つまり、環境破壊に心を痛める良心的な大人も存在することは仄めかされているが、大人が大人を批判する姿は描かれない。その役割は、動物たちのような自然の側に与えられる。登場人物(動物?)の役割や演出から観察できるが、直接的には目に見えず語られない、本作品の作為を読み取ってしまった私は「本当に大切なこと」を得られたのだろうか。

 

4. もう1つの矛盾?:「子ども」と「小さな大人」

 私は、本作品にルソー的「子ども」観を見出した。しかし一方で、反ルソー的な「小さな大人」としての子ども理解の志向性も感じ取っている。この感覚は、原作にはない本作品オリジナルの場面を通して、際立って現れている。
 環境破壊と戦争、これらは今日の国際社会が直面している切実な課題である。大人たちが知恵を振り絞ってなお、解決困難な難問である。現実には優しい人間もいれば、悪意のある人間もいて、そのような形容詞では割り切れないほどに生々しいことがたくさんある。そのような生々しい現実を、子どもはどの程度、知るべきなのだろうか。
 今日の子どもたちは早熟している。例えば私が子どもだった頃は、英語は中学校で習うものだった。しかし今では、小学校で英語を学ばなければならない。メディアリテラシーを獲得し、デジタル機器に習熟しなければならない。論理的思考能力が必要で、プレゼンテーションスキルも磨かなければならない。学校以外でも数々の習い事が普及し、数々の教育家族で消費されている。子ども時代に空想に耽る余地などないのではないかと思わされるほどに、子どもたちは早熟している。いや、いつか大人になる存在として、社会にとって有益な存在になるために、子どもたちは早熟せざるを得ないのである。
 冒頭でも述べたように、私は文学や文芸のど素人である。ゆえに観劇するまで、私にあるのは先入観のみであった。劇というものは、日常の喧騒を離れて空想の世界に耽るものなのだろう、その作品内世界を探訪してそこで繰り広げられる出来事と戯れるのだろう、等々。しかし私にとって、本作品はすぐれて現実的であった。「子ども」とは何であり、現実の子どもはどうあるべきか、考えざるを得なかったからである。すなわち、閑暇の場で空想に耽ることが許される自由な「子ども」と、実践の場における問題解決能力の習得が望まれる子ども、両者の境界線は一体どのように引かれるべきなのだろうか、と。
 本作品は「本当に大切なことは目に見えない」ことを主題とする。少なくとも、そのように告知されている。しかし私は、「見えているが気づかれていない」ことが本作品の主題であるべきだと思う。目に見えないことの中から大切なことを探すというのは、砂漠の中で砂金を探すに等しい行為である。今日の子どもたちを取り巻く状況においても、デジタル技術が浸透し、価値観の多様化が叫ばれ、目に見えない人・物・事の関係の網の目が形成される中で、本当に大切なことを見つけ出せと言われても途方に暮れてしまうだろう。だから、ついつい大人が現実を見せてしまう。加速度的に変化していく社会の中で、「子ども」のまま微睡んでいる者を悠長に待てるほど、誰も彼も余裕がないのだ。しかしそれでも、本作品にはこのようなことを語ってほしい。あなたにとって本当に大切なことは実はすでに見えているのかもしれない、と。王子さまのように気づくには時間がかかるかもしれないけれど、地に足つけて見えているものと触れ合ってほしい、と。もしかしたらその行く末では、常識にとらわれない「子ども」のしなやか感性と、世界の現実を学ぼうとする子どもの姿勢が、互いに手を取り合って結ばれているのかもしれない。

< 独り言 >

 最後に1つ。私は本作品の矛盾を指摘したが、本作品を否定しているわけではない。私が指摘した矛盾は、常々私に見えてはいたが気づかれていなかった、私にとっての問題意識の言い換えである。つまり本作品は、私にとっての問題意識を明瞭にする1つのきっかけになったのである。このことは、文学あるいは文芸の適切な楽しみ方ではないかもしれないが、仮にそうであったとしても些末事だろう。初めて観た劇で、右も左も分からない中で、これだけのことが語れたのだから。

 

 

池田竜介(九州産業大学 人間科学部 子ども教育学科 講師)

2019年に九州大学大学院の博士後期課程を単位取得退学。大学院では教育方法学を専門とするゼミに所属し、取得学位は修士(教育学)である。教育・保育が成立する条件やメカニズムに研究上の関心を有し、その一環で、教師や保育者の専門性に関わる研究を行っている。また、教育・保育の場で学びや育ちがどのように現れるかということにも関心を有しており、とりわけ数量化困難な学びや育ちの意味づけを巡る方法論に関する研究も行っている。


 

『小さな王子様』 公演概要はこちら

 

2024年12月23日