ろうそく能『葵上』解説&アフタートーク レポート
2025年11月9日(日)に久留米座の特設能舞台で開催した「ろうそく能『葵上』」。上演前に行った木ノ下裕一さん(木ノ下歌舞伎 主宰)による解説と、六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)を演じた多久島法子さんを迎えたアフタートークの模様をお届けします。
まずは事前解説から。木ノ下さんが客席へ向かって「初めて『葵上』をご覧になる方?」と問うと、大半の方が挙手しました。

〈木ノ下〉8~9割がファースト『葵上』ですね。原作は、紫式部の手による源氏物語の『葵の巻』。葵上は光源氏の正妻ですが、能では愛人の六条御息所(以下、御息所)が主役です。もめる気配がムンムンいたしますね。そう、もめるんです。正妻が産後に寝込んでしまって、原因を探ったら、愛人の生霊が正妻を苦しめていた、というのが今回の能でございます。たいへんドロッとしておりますね。
今日は2点の約束事をおさえておくと見やすくなります。
1つ。タイトルになっている葵上は登場しません。舞台正面に衣(小袖)が1枚置かれますので、それを病で臥せっている葵上だと思ってください。
2つ。御息所の生霊は、巫女や小聖(修験者)以外の舞台上の人たちには見えていません。客席にいる私たちは、魔物を見ることのできる特別な目で能を見ています。
この2点をおさえた上で、集中力の90%は前場(まえば:前半)で使ってください。後場(のちば:後半)は動きも多いですし、般若のすさまじさもあるので残り10%で楽しめます。なので前場で寝ないように、見どころを3つ。

1. 巫女が交霊(霊媒者を介して霊を呼び出すこと)のために梓弓を鳴らすシーン。鼓が等間隔に聞こえてくると、生霊が吸い寄せられるようにふわーっと登場します。生霊だから消えたり現れたりするのですが、衣をかぶっている時は消えていると思ってください。
2. 元皇太子妃の御息所が、華やかで楽しかった宮中の記憶を語る「口説き」のシーン。御息所はジッと座ったままほぼ動きません。語りだけを聞きながら、四季折々の宮中の美しさや、まだ自己肯定感の高かったころの彼女を想像していただく時間です。
3. 枕の段と呼ばれる口説きの名シーン。御息所の様々な苦しみや悲しみ、恨みつらみがブワーッと発露する瞬間のキビキビとした動きはダイナミックです。とても重たいですが、生霊と化すほど抑えきれない御息所の思いを全身で受け止めてください。
前場の2つの口説きは、明らかにテンションが違うので見分け・聞き分けはできます。 後場は小聖が御息所の生霊と対決するシーンです。
そして、今日はろうそく能という特別な手法なので、このあと火入れが始まるのですが、ろうそくの炎のゆらめきには面が非常に映えます。特に前場の泥眼(でいがん)の面(人間を超越した存在や、鬼へと化す女性の怪しい美しさや怨念を表現)は、白眼に金泥を塗っていて、人間ではない雰囲気を醸し出すのでご注目を。
ろうそくだけだと真っ暗なのでほんの少し照明を足しますが、暗いと聴覚がいつもより冴え渡ります。謡の言葉、囃子の音、衣擦れの音など、音にも注目してご覧いただければと思います。普段とは違う特別な設えですので、ファースト葵上の方にはぴったりかと思います。

終演後には、木ノ下さんと多久島法子さんのお二人によるアフタートークを開催。
〈木ノ下〉ろうそく能ということで、いつもとは違いましたか?
〈多久島〉かなり暗いですね。怖かったです。
〈木ノ下〉4月に明るさの実験をしたんですが、「もうちょっと落としましょうよ」「いやいやいや」って二人でせめぎ合い。終演後「もっと明るくしてくれたらいいのに」って声も聞こえましたが、ごめんなさい。ギリギリまで照明を落とした効果はあったと思っています。声に囃子に足拍子、後半は長袴なので衣擦れの音…能ってこんなにもいろんな音がしてるんですね。
〈多久島〉毎回長袴を履いているわけではないのですが、普通の能楽堂だとなかなか聞こえないので、きっと耳を澄ませた状態だったからでしょうね。能の主人公は御息所ですが、今日は衣しか登場しない葵上の気持ちも浮かび上がってきたような感覚があります。こんなところにポツンと置いて行かれて悲しいなって。

〈木ノ下〉いいお話!原作の葵上は最期まで光源氏に甘えることが出来なかった悲しい女性なんですね。亡くなる直前にちょっと甘えるけど、その時の光源氏は冷たくて、一人で死んでいく。その孤独感みたいなものも見えましたね。
〈多久島〉能を見た後に源氏物語を読むと、すごく面白いと思います。
〈木ノ下〉苦しい気持ちを表に出せず生霊化してしまった御息所ですが、原作では抽象的な描写しかない。能では舞台上で姿形にしてシェアしようという温かさがありますよね。
〈多久島〉御息所は、ただプライドを捻じ曲げられただけでなく、誰にも語れなくて押し殺していた悲しみが募り募って生霊になってしまった。謡の音程を変えることはできませんが、御息所の気持ちを最大限表現できるよう心がけました。

〈木ノ下〉だからかなぁ…今まで見た『葵上』と違って、一言で表現すると重たいの。モヤモヤしたものがずっと残るというか。この曲はよく女性の嫉妬の話って言われるけど、改めて考えると、自分の尊厳を奪われたことが一番の悲しみなんじゃないかと。元皇太子妃としても、源氏からも車争いでも雑に扱われて、かつそれを誰にも訴えることができない。
〈多久島〉葵上と御息所、この二人似てませんか?お互いうらやましくて、誰にも話を打ち明けることすらできなくて…井戸端会議でもできていたら、わかりあえてタッグを組んで、光源氏の方がどうにかなっていたかも。
〈木ノ下〉いい友達になれてたかもしれないですね。御息所は葵上を取り殺すんじゃなく、自分のもとへ連れて行こうとしてる。あれはSOSのようにも見えて切なかったですね。
〈多久島〉わぁ!光栄です!般若が出てくると、鬼がやられた、イエイ!って思われがちなんですけど、同じ女性だからこそ、そうではない一面を見せたくて。

〈木ノ下〉これまでの『葵上』は、最後に調伏(ちょうぶく:災いをもたらす存在を仏の力で制圧し救済する)されるから見ていて発散できたんだけど、今回はスッキリしない。般若がどこか悲しそうで…この気持ちは小聖には通じないんだって絶望してもいるようで。
〈多久島〉後半の祈りの場面は「数珠の音を聞きたくない」って気持ちが出たらいいなと思って演じました。特殊演出で長い髢(かもじ:付け毛)を使ったのも、ジトっとした感じを出したくて。
〈木ノ下〉長い髪を手繰って巻きつけて投げつけるというスゴイ演出でした。平安時代の女性にとって髪はすごく大切なものですし、御息所の髪の美しさは原作の描写にもある。般若になったとしても、鬼ではなく女性なんですよね。
〈多久島〉鬼の時は別の面を使います。般若を使う作品は200曲中3曲だけなんですが、女性の怒りや悲しみが募って…という定義があるので、悲しさを重視してる能面なんじゃないかな。「面を曇らす」と言うんですが、下を向くとすごく悲しそうに見えます。

〈木ノ下〉今回は全ての役と演者さんの性別が一致していますね。
〈多久島〉基本的に能では男性が演じるのですが、今日は違和感なくみられる舞台だったんじゃないかな。
〈木ノ下〉女性同士の巫女は御息所と同化しようとするけど、男性の小聖は問答無用で抑え込もうとする。いつもの『葵上』と違って、その男女差が見えたのも面白かった。ただ、あれだけ悲しみをひっさげていた御息所が、最後は急に「ありがたい」って言いはじめるラストはなんとかならないかな…。
〈多久島〉菩薩が目の前に現れて、成仏して帰るっていう話なんですが、御息所はまた一人で思い出して延々と繰り返すんじゃないかなって。どっちにも聞こえたらいいなと思いながら節を謡いました。
〈木ノ下〉あぁ、納得しました!いろんなわだかまりや、グズグズした関係とか粉々になったプライドとか、きっとすぐには癒えないけど、御息所に心穏やかな時間が訪れますようにって一緒に祈ればいいんだ。これは法子さんが御息所を演じたからこそ生まれた感覚ですね。原作はこのあともいろいろありますが、やはり能は優しいですね。

〈多久島〉歌詞だけ見れば結論が出ているけど、その日の謡や役者はもちろん、それぞれの人生の中での見るタイミングによっても感じ方は異なるので、能は余白のある芸能だと思います。ちなみに、みなさんに聞きたい!御息所はまた来るって思う方?
〈木ノ下〉(客席を見渡して)8割ですね…では、成仏してないけど、してほしいって思った方?…結構いらっしゃいますね。能を見る一番のコツは先入観を外すこと。この演目はこうですってキャッチコピーはあるけど、そうではない自分なりのキャッチコピーをみつけることが大事。私なら今日は「尊厳を失った女性の悲しみ」とつけるかな。それは同じ曲でも舞台によって変わるし、自分の感覚や年齢でも変わります。

〈多久島〉私が御息所を演じるのは4回目なんですが、置かれている心境だったり経験だったりで変化しています。今日は3回目とは違う、私らしい『葵上』ができたのかな。
〈木ノ下〉先ほど見終わって心の中に御息所が住み着いた感じがしていて、このまま家に連れて帰るんだなと。印象的な「思い知らずや 思い知れ」って歌詞は「あなたは知らないだろうけど私はこんなにも悲しいんだよ、知ってください」という意味なんですが、御息所は葵上に対してだけでなく、観客に対しても思いをシェアしてるのかな。しばらくは心に御息所を住まわせて「悲しかったね」って対話していきましょうか。

★来場者の感想を一部ご紹介します。
・普段はろうそくの灯で能を見ることがないので、雰囲気も独特で大変面白かったです。鬼女の面の眼が光っており、より常ならない感じが出てドキドキしました。最初の見どころも解説していただいたので分かりやすく助かりました。
・ 御息所のどうしようもないやるせなさや苦しみ、ままならなさが伝わってきました。アフタートークの中での尊厳の話や、もし女性2人が話し合えていたら意気投合できたかも、ということがとても興味深かったです。悲しみにスポットライトを当てた内容にとても共感しました。
・期待以上に素晴らしい世界でした!当時の暗い感じは、こうだったのかなーと想像できましたし、暗い分、音にも敏感になり、臨場感ありました。 最後、生霊となった御息所がハッと自分の姿に気づくところが哀れで切なく涙が出そうでした。
・ろうそくの光の中での葵上は初めてでした。前半の解説を聞いて演目にとてもマッチして、幻想的。六条御息所の見方がかなり変わりました。 演者の所作や考え方もあるのかも。というか、それか!という感じです。
・ろうそくの火に照らされて見る能の良さに初めて気づきました。 般若の面が角度によってもの悲しく見え、真正面からよりも横からやあおりの方が、表情が際立っているようでした。火の揺らぎが面にうつり、六条御息所の感情をより感じることができたと思いました。


