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『第二回 久留米座 花緑会』柳家花緑師匠にインタビュー

  昨秋、青木校区コミュニティセンターで落語のアウトリーチ※公演を開催しました。ひときわ高い特設の高座に上がったのは、柳家花緑師匠。表情豊かに繰り広げる面白い話に誰もがグイグイ引き込まれ、会場は終始笑いの渦に包まれました。終演後、花緑師匠に突撃インタビュー!2月11日(火・祝)に行われる「第二回久留米座花緑会」への意気込みなどをお尋ねしました。

 ※普段劇場を訪れるきっかけが少ない方に、

   芸術や芸術家と触れ合う機会をお届けするのがアウトリーチ事業です。

 

「第二回久留米座花緑会」公演詳細はコチラ!

まちプラvol.24にも花緑師匠のインタビューを掲載しています

 

落語ほど

お客様に喜んでもらえないと

生き残れない芸能はない

―アウトリーチ公演を終えた感想をお願いします。

 今回のような無料公演って、つまらない噺をしていると、お客様が途中で帰っちゃうんですよ。今日は皆さん、有料公演と同じくらいよく聞いて、よく笑ってくれたのでありがたかった。あとは、コミセンの窓から見えるキャベツ畑の青さが印象的でしたね(笑)。

―落語を生で聞いたのは初めてという方も多かったようです。

 落語は本来お客様の前でやるものなので、なるべく生で聞く機会を増やしたいと思って活動しています。落語には、ただ笑わせるだけじゃなく、物語を聞いてもらうという醍醐味もあって、一つの噺をやる時は一人で演劇をやっているようなもの。今日は1時間くらいの中でいろんなことを感じてもらえたんじゃないかな。

―今日の噺は、「親子酒」と、現代風にアレンジされた「刀屋」でした。

 一席目の「親子酒」は酔っ払いの噺なんですが、誰でも身近に思い当たる人がいて共感度が高いんですよ。僕はいつも喋りながら演目を決めるんですが、今日はお客様の反応が良かったので二席目を「刀屋」にしました。短い映画を見たような、ドラマのあるものを聞いてほしかった。オチは僕のオリジナルです。

―ご自身の発達障害のお話もされていましたね。

 僕が発達障害のことを明るく話すことで、少しでもストレスが減ったり慣れてくれるといいなぁって。カミングアウト以降は講演会の機会も増えたし、一過性ではなく、ちゃんと勉強して実践を積んで、どう社会で活かしていけるのか、自分の生き方を通して考えないといけない。僕のように、大人になって発達障害を知った人を救えるのかも大事なテーマです。

―落語家になるという選択をした理由は?

 自分が多弁症ということは40代になって知ったんですが、昔から喋るのは好きでした。祖父(※)という噺家が身近にいた影響もあるけど、落語以上に魅力的なものもなかったし、“喋りたい”という欲求が稽古に向かわせた。プレッシャーは大きかったし、今のように200もの演目を喋れるようになるのは決して簡単なことではなかったけど、たくさんの気づきや先輩からの助言、味方になってくれたお客様がいたからここまで来れた。これからも自分を客観視して、磨いていかなきゃって思います。

  ※5代目柳家小さん(1915-2002)…1995年、落語家として初の人間国宝に認定。

―2月の公演について、久留米座にはオープニング以来2度目の登場です。

 いいハコ(劇場)が出来るといい芝居が来るので、街の財産だと思う。850人もいる噺家の中でオープニングを飾ることが出来たのは、とても名誉なこと。久留米とのご縁を積み重ねて行けることに嬉しさを感じます。

―落語は敷居が高いと思っている方もいるようです。

 歌舞伎や能・狂言のように、言葉がわからないとか理解できないだろうとか誤解している方も多いんですが、落語にイヤホンガイドはありません。それは、噺家が工夫してわかりやすく喋る、お客様に寄り添った芸能だから。落語は喋ったこと全てが技術。上手いも下手もお客様にはバレバレで、絶対に嘘やごまかしがきかない。落語ほど、お客様に喜んでもらえないと生き残れない芸能はないと思います。

―では、最後に意気込みをお願いします。

 時間は命、一緒の時間を共有しているわけですから、「来てよかった」と思ってもらえるように全力で喜ばせるだけです。気力と体力を十分にして臨みます。何の準備も必要ありませんので、健康な身一つでお越しくださいませ。

 

●Profile

1971年、東京都出身。1987年3月、中学卒業後、祖父の柳家小さんに入門。前座名「九太郎」。1994年、戦後最年少という22歳の若さで31人抜きの真打昇進。近年は、洋服と椅子で口演する“同時代落語”にも取り組むほか、2017年には著書で発達障害を公表。自身の経験を交えて講演会を行うなど、活動は多岐にわたる。

 

2020年01月30日