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「はじめての能『巴』~Now, Know Noh!~」木ノ下裕一&多久島法子にインタビュー

2025年2月1日(土)に「はじめての能『巴』~Now, Know Noh!~」を開催します。公演に先立ち、事前解説を務める木ノ下裕一さん(木ノ下歌舞伎 主宰)と巴御前を演じる多久島法子さんにお話を伺いました。

 
 多久島さんにお伺いします。『巴』は修羅物(武士の亡霊が主役の曲)の中で唯一女性が主役の演目ですが、男性を演じる時と変えているポイントはありますか?
 

〈多久島〉あまり気にしたことがなかった…言われて初めて意識しました。普段は性別というよりキャラクターを意識して演じることが多いです。男性役は勢いで思い切ってできるところもあるのですが、『巴』などの女性役はより繊細です。心の移り変わりを面一つ動かすことで表現したり、わずかなセリフでも心情が伝わるようにしたり。どんな作品もそうですが、女性役は特に考えることが多いです。

〈木ノ下〉女性役だから気を遣うというより、キャラクターが繊細だから俳優として気を遣うのかもしれませんね。

 木ノ下さんにお伺いします。多久島さんが演じる『巴』で楽しみにしていることはありますか?
 

〈木ノ下〉多久島さんの舞台を初めて拝見したのは『葵上』。シテ(主役)で六条御息所の生霊を演じていらっしゃったのですが、その時は全ての役柄と役者のジェンダーが一致していたせいか、地謡(じうたい・声楽)とシテの声の絡み方に“生々しさ”を感じました。それに新しい発見もあって。これまで『葵上』は、修験者が生霊を調伏(ちょうぶく)して排除するお話だと思っていたのですが、巫女が口寄せで霊を憑依させるように、御息所に共感するような感覚になったんです。また、舞台袖へ退く時の腰(重心)の低さや目線など細かい部分まで、随所に気遣いや工夫を感じました。多久島さんが一つ一つの作品を丁寧に検証し、役とじっくり向き合っているからこそ、いつもとは違う部分にスポットが当たって着目したのかもしれません。

〈多久島〉『葵上』の最後に詰める(足を止める)シーンは、どうするのが効果的なのかを考えながら繰り返し稽古して本番に臨んでいます。御息所は3回演じたのですが、“舞台は生もの”なので、地謡を聞きながら見せ方を変えたりしています。自分の中に引き出しがあるからこそ本番でチョイスができる。師匠からは「稽古と違うことするんじゃない!」と言われるけど(笑)。

〈木ノ下〉多久島さんの能は「生霊がここにいる。生きている能だ」と感じました。『巴』は、修羅能だから勇ましいけど、ナイーブな側面がある作品なのでどうなるのだろう…。

〈多久島〉『巴』は泣いている仕草である“しおり”が多い作品です。特に、背を向けるシーンが印象的なので、背中にうつる悲哀…“女性だから”義仲に対する忠義をつくせなかった、恋焦がれてではなく、武者として使命を果たせなかった、そんな切々とした思いが伝わるように演じたい。薙刀を持って強く見せるシーンや、義仲が自害するまでの時間稼ぎをする(敵をひきつけて追い払う)シーンは、完全に背を向けるので顔は見えないのですが、巴の“覚悟”を感じていただければ。最後、義仲との思い出を断ち切るかのように、一つ一つ甲冑を脱ぎ捨てて落ち延びていく姿が“キュン”ポイントです!(笑)今回は、通常演出では登場しない義仲の形見の小袖を、実際に巴が着て落ち延びる、という演出が入ります。巴の複雑な心情がより際立つラストシーンも見どころです!

〈木ノ下〉舞台上で生きている巴を観るのが本当に楽しみです。

 お二人が感じる「能」の魅力は何だと思いますか?


〈木ノ下〉能は鎮魂の芸能で、限られた道具、言葉、身体で表現する抽象舞台。テンポはゆっくり、余白がたくさんあるので、同様の経験を想像しながら受け止めたり、自分自身を投影できるのも魅力です。例えば、ジェンダーや生まれた場所や環境など自分ではどうすることもできない属性によって達成できなかった悔しさは、多くの人が感じてきたのでは。能を観ることによって、その気持ちを可視化できたり、浄化できたりするかもしれません。最近はTVや映画を倍速して観る方も少なくないようですが、能はその逆。少しのシーンに時間をかけることで、観る側も気づける感情があると思います。

〈多久島〉能は一人の人生を描いているのですが、起こってしまったことを後悔したり、想いを馳せたりします。すごく幸せな人はあまり出てきません。“今”を生きていく上で抱えている想いと重なり、どこかしら共感したり、自分の人生をふと振り返ったりできる。だからこそ700年続いている文化なんだろうなと感じるし、普遍的な人間の感情が表現されていると思います。

 初めて能を観る方は、どんなところに注目して鑑賞したらよいでしょうか。


〈多久島〉『巴』は舞がなく、所作(演者の動き)だけなので最初は難しく感じるかもしれませんが、音楽で演じるのでミュージカルのようでもあります。また、後半の謡は静と動が交互にやってくるので、飽きずに楽しめるのでは。能では一人の人生をシテとワキ(シテの演技を引出す役)で追いかけながら演じます。ワキが「どうしたの?」と聞くことによって、シテが「なぜ怒ったのか」「なぜ悲しいのか」を語り始めます。シテの立場になって能を観ることで相手の気持ちを考え、思いやりの心を育む土台が作られるのではないでしょうか。

〈木ノ下〉史実では巴が実在したかどうかはもちろん、義仲の死にざまも定かではありません。『平家物語』でも、義仲最期のシーンは作者の想像力がフルに生かされている部分だと思います。巴の揺れ動く感情にグッと光を当てたのが能で、義仲が巴の回想の中にしか出てこないところがいい!(笑)多久島さんがおっしゃった通り、ワキと同じように「今どういう気持ち?」と問いかけ、シテの心情を感じる。そうやって鑑賞することで「巴は何を無念に思ったのだろう。死んだ後は何を考えたのだろう」と想像が膨らむ。想像力がないと「何をしているのだろう」で終わってしまいます。

〈多久島〉『巴』は、登場人物のめくるめく感情の変化が描かれる見所の多い作品。前半はワキの立場になって、後半は巴自身に憑依したような感覚で楽しめると思います。能は歴史のほんの一部分しか描きませんが、歴史を知れば知るほど面白い芸能。義仲が巴を突き放したのは自分の恥のためなのか、巴のためなのか、観ている時の感情やコンディション次第で感想やセリフの捉え方が変わると思います。私のお弟子さんたちは、能を観た後に感想シェア会をやっているみたい。今回は公演後にアフタートークがあるので、みなさんと共有できるのは面白そう。

〈木ノ下〉所作のみで演じる『巴』は、舞ほど抽象的ではないのでストーリーがわかりやすく、初心者にはとっておきの作品。事前解説とアフタートークでどこまで話そうか…。演者が思っていることが正解ではないことを伝えつつ、みなさんの想像力を奪わないようにしたいと思います。

木ノ下 裕一(きのした ゆういち)

1985年和歌山市生まれ。小学校3年生の時、上方落語を聞き衝撃を受けると同時に独学で落語を始め、その後、古典芸能への関心を広げつつ現代の舞台芸術を学ぶ。2006年に古典演目上演の補綴・監修を自らが行う木ノ下歌舞伎を旗揚げ。代表作に『娘道成寺』『隅田川』『東海道四谷怪談-通し上演-』『糸井版摂州合邦辻』『義経千本桜-渡海屋・大物浦-』など。2015年に再演した『三人吉三』にて読売演劇大賞2015年上半期作品賞にノミネート、2016年に上演した『勧進帳』の成果に対して、平成28年度文化庁芸術祭新人賞を受賞。第38回(令和元年度)京都府文化賞奨励賞受賞。渋谷・コクーン歌舞伎、神田伯山の補綴を務めるなど、外部での古典芸能に関する執筆、講座など多岐にわたって活動中。まつもと市民芸術館芸術監督団団長。
 

多久島 法子(たくしま のりこ)

福岡生まれ、福岡市在住。唐津生まれの祖父、父に続き能楽師となる。人間国宝 大槻文藏に師事。初舞台は2歳で仕舞「老松」。東京藝術大学卒(音楽学部邦楽科能楽専攻)、藝大在学中に「安宅賞」を受賞。講演活動も積極的に行う。能の「紙しばい」を製作し小さな子ども達にも能を楽しんでもらえるような新しい活動にも積極的。ほかに事前講座「0から能を楽しもう!」、能楽を身近に!をコンセプトとする「NOH組曲」、佐賀県神埼では「能に親しむ会」「子ども能楽教室」、唐津では「唐KARAコンサート」などを開催。大阪では「コラボ企画 能楽師×料理人」を主宰している。
 

「はじめての能『巴』~Now, Know Noh!~」公演概要はこちら

2025年01月09日